遊戯王ゼアルの考察と謎

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遊馬は「何者でもない」かっとビングの教え

【かっとビングとは「自分定めない」精神である】


一度タイトルで「勇者の凱旋」というタイトルが出ました。

やっぱり、遊馬は勇者だったか。

ドラゴンクエストの生みの親、堀井雄二さん曰く、勇者とは「あきらめない人」のことを言うらしい。

うん、一言一句間違っていないですね! 素晴らしい!


しかしですね、皆さん、「あきらめる」という言葉を誤解している。

あきらめることは、決して悪い言葉ではないのです。

ただ、ドラクエをはじめとして、少年たちの間で、「あきらめない」が出回ってしまったため、「あきらめる」は非常に肩身がせまい。

「あきらめる」とは「明らかに極める」が語源となっています。


「諦観」という言葉がありますが、これは「物事について見定めること」を意味します。

 

要するに、何かに対して、自分が「これだ」と認識すること。

こと、ゼアルにおいては、「自分自身を見定める」ことを意味します。

しかし、前提として、遊馬においてはこれらがないわけです。


皆さんは、大人になるにつれ、そういう意味で「物事の見定め」たる「あきらめ」を人間は成長の過程で学んできたはずです。

そして、それらのほうが処世術においても、有意義であることをおそらくはご存じだ。

 

勿論、敵役は「もうあきらめちまえよ…」と何度も煽るのですが、それでも頑なに「あきらめない」を誇示します。

それは彼のデュエルにも、考えも同じでホープを出し続けたり、負け続けデュエルをしたりと、根本的には同じ。

これをよく世間では「バカの一つ覚え」と言いますが、それでも勝つのですよ。

でも、それこそが実はゼアルにおいては大切なことだと教えているわけです。

 

アストラルは七皇について、自分たちの過去を知らせましたが、遊馬にはそのことを教えませんでした。

おそらく、七皇に限っていえば、ドン・サウザンドによってゆがめられた人生を送ってしまったという理由からでしょう。


遊馬に自分の過去を諭すことはおそらく、「自分を見定める」……「あきらめる」行為、いわば「かっとビング」そのものの否定を意味します。

 

前にも話しましたが、アストラルとかっとビングがほぼ自分成分の彼は、おそらく、「自分という鎖」にとらわれることだけは、よしとしない。

アストラルが「鎖」になっていることには、全くもって異論はないのに、いざ「自分が鎖」になると途端に動けなくなってしまうのでしょう。

唯一、「自分を制御」できる(かもしれない)存在が実は「運命の扉」だったのですが、それも最後の最後で壊していきました。

 

アストラルが必死になって遊馬と「自分探し」(ナンバーズ集め)をして自分の可能性について真剣に悩んでいる最中、相棒の遊馬は、そんな自分探しなど論外なところで好き放題暴れているわけです。

まるで、自分の悩みなど「とるにたりない小さなこと」のように。


アストラルにとっては大迷惑かもしれませんが、そんな二人の関係がほのぼのとしていて私は好きなのではありますが(^^;

 

天馬、今ここに解き放たれ、縦横無尽に未来へ走る。

これが俺の、天地開闢! 俺の未来!


未来皇ホープを出した時も「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」ですからね。

この子、どれだけ、自分に興味ないんだよ……と半ばあきれてしまいました。

 

 


【思春期前の子供に「あきらめない」ことを教える理由】

遊馬は13歳という、今ではSEVENSの遊我君が出てきたのですが、それまで最年少主人公でした。

13歳と言えば、思春期入りかけ、「本当の自分」とは何か、「自分探し」や、将来に関して興味深々になっていく年頃です。

そんな時期に「自分を定めない」精神を持った子供が文字通り縦横無尽に走り回るわけです。

要するに思春期なのに、中身はまだ純粋すぎるガキという。

そりゃ、色々なことに悩み苦しむシャークさんも、遊馬には「イラっと」するかもしれません。

 

前作の遊星は18歳。遊戯も十代も少なくとも元服(15歳)を超えた年齢でしたから。

皆、10代の「思春期」というものを経て、大人になっている年頃の子なんですね。

もう、世間からすれば大人と言われてもいい年齢。

しかし、彼は13。いやいや「かっとビング」精神持ちだったら、年齢下げなくてもいいじゃん。と思っていました。

 

「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」


結局、遊馬はラストのラストまで「遊馬のまま」でした。

確かにデュエルチャンピオンという肩書もあるのですが、それもしっかりと形骸化しており、後々それほど語られることがなくなります。

自分というものは結局「自分自身は何者でもない」ということの意義だと私は思っています。

結果的に、誰が自分をどう言おうと、自分が「これだ」と決めない限り、自分自身は「何者ではない」のである。

よく言う「自分の可能性を閉ざすな」「お前はまだ何者でもない」ことの意味である。


安易に自分自身を定めて、可能性を閉ざすな、挑戦しろ、自分自身の限界に挑め


そういうことなのである。

これを「自分自身に悩む」年頃の前にきっちりと説教しておく必要があった。


「君は将来何になりたい?」と言われて、決まっている人はいいだろう。

「本当になりたいか?」そう問い続けるのもよいだろう。

「決まっていない」なら堂々とこれからどんどん可能性を模索していけばいい。

そして、それは全く悪いことではないことを教えている。

 

だから、遊馬は13歳。

しかも、彼にはかつて5D'sにあったような「将来の描写」はない。(漫画版にはあるけどねw)

何気ない日常を延々と過ごしながら、ちょっとした「鼓動」に気づいて、危険を顧みず飛び込んでいく。

目の前への強く踏み出す一歩、そして、その積み重ねが未来につながる。


これは、progressという歌詞からの引用


“ぼくが歩いてきた 日々と道のりを ほんとは≪ジブン≫というらしい”

 

自分が何者か、なんて実は小さいことなのかもしれません。

 

 

 

 

【遊馬はシャーディなのか】

ここからは余談

 

ここまで書いて、遊馬って実はシャーディなんじゃないか。なんて思ったりもする。

シャーディは「鍵」を使いました。千年アンクの持ち主ですね。遊馬も「皇の鍵」をもつ。そう思うのは、ダークオブディメイションにおいて、監督が一緒だからなんだよね(^^;

 

彼は、次元を超えることで、浮世の悩みを浄化しようとしていた。

そこに、藍神たちが絡んでくるわけで。

シャーディはいうなれば、「教祖」であり、原作でも、ペガサスに千年眼を与え、デュエルモンスターズを作り出したそもそもの原因。(原作ではM&Wだけど)

何より、ダークオブディメイションにおいては「次元を超える」存在として描かれている。

 

遊馬もまた長い間、アストラルの半身として、ふらふらと何千年も放浪したキャラとして描かれているのですが、その間、やっぱり、「次元」を行き来してたのかな、最後の終の住みかとして人間世界を選んだんじゃないかな、なんて思えるえわけです。「旅」なんですよ。吉田松陰みたいじゃないですか。ただ、旅の結果はあまりよろしくなかったようで。

彼に「自分」がないのは、そうした次元を移動することによっての「悟り」ともとれるんですよ。多分、次元を移動することでいろいろなものを数千年見てきたのでしょう。(いや、宗教じゃないですよw)

「悟り」というのはいわば「あきらめ」ですから、この現世でも、「心が死なない」ように、父は魂に「あきらめない心」かっとビングを遊馬に教え込んだ、ととれる。おかしい言い方ですが「悟り」と「あきらめない心」という一見矛盾したものを遊馬は持ってるんです。

 

シャーディは結局、次元を移動して、「あきらめる」ことを学んでしまった。「苦しみ戦争も何もない」世界を捨てて違う次元を行こうとする。これって

「人の苦しみも見ないで、知らないで、本当のランクアップなんてできっこねぇ」

につながる。結果的に、シャーディは何もできなかった。藍神も、最終的には遊戯たちを選んだ。シャーディが「死後救済」(次元移動による解決)を唱えるのだとしたら、遊馬は「現世救済」をひたすら説くのである。それが「可能性」という言葉で現れている。

だから、遊馬には「希望」(現実的な解決手段)を与えられた。ホープはひどい言い方ですが、殴るためにいるんですよ。「うぬぼれるなぁ」ってね。熱血教師かよ。だから、最後、遊馬も殴られる必要があったんです。

よく遊馬のベクターを救おうとした姿が「菩薩」だと言われるのだけど、そういう意味では「現世」の悩みに答えをもたらす「菩薩」というのも、答えとしてはあっているんですよね。

 

そう考えると、シャーディはかき回しただけかき回して何もできなかったという結論になるのですよね。奇怪で、一時はボバサというキャラになり遊戯たちを導き、最後は「自分の正義」のために誰かを利用する。(これって、ベクターっぽいなぁ(^^; )

遊馬が仮にそうなってしまった場合、遊馬はラスボスとして倒される運命にあったかもしれません。

 

とはいえ、個人が考えるのは、こいつは「瀬人」には似ているけど、シャーディじゃないんだよな。シャーディぽいのは、アレなんです。「皇の扉」。

遊馬には(遊星にはないけど)お決まりの「二面性ぽい」キャラクターがいないのです。(アストラルやベクターはまた別の話)。唯一、二面性を持つ遊馬の身内って、1人だけ「皇の扉」なんですよ。

だから、私は、皇の扉を「過去遊馬」、あるいは「あきらめ遊馬」とみているわけです。よく「運命にあらがえ」なんて言葉がありますが、運命の扉はいつでも「あきらめ(=悟り)を待ち望んでいる」存在だととらえると、「一生懸命に頑張る」ことを全否定、運命に従え、世の中に従順しろ、という扉の声が聞こえてきそうなわけですよ。遊馬からしてみれば、「運命」が勝つか、「あきらめない心」が勝つか、の追いかけっこみたいなものでした。アストラルはそのおいかけっこに終止符を打ったのでしょうか。「運命と向き合え」の意味なのでしょうか。

シャークは運命と向き合った。遊馬はうまく運命と向き合えたのだろうか。