遊戯王ゼアルの考察と謎

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ビヨンド・ザ・ホープ 希望の限界…とは?(リライト多分します)

希望、夢、あるいは、未来というのは、そりゃあ、少年あるいは少女向けアニメや漫画で死ぬほどお世話になった人がいるだろう。

ただ、それらの言葉を説明しろと言われて、うまく説明できないのではなかろうか。

希望とは…明るい見通し。何よりも「望み」と置き換えられる。


ちなみに、遊戯王ゼアルの主題歌(第1期OP~第6期ED)までで一番多いワードは…なんと「夢」である。

希望ではなかった。

余談ですが、5D'sで一番多いワードは「明日」でした。


夢と希望、よく一緒に語られるがその性質の何が違うかというと、「今」の視点から遠くにあるものを「夢」という。

そして、「今」の視点から「近くに望まれるもの」を「希望」という。

例えば、医者になりたい、スポーツ選手になりたいetc…これらは比較的「遠い未来」に望まれる。これが「夢」だ。

しかし、「希望」とは比較的近くにあるものだ。

場合によっては、身近なところにある。というか、転がっている、そのあたりに。

希望を「望み」とした際に、実は人間は絶望すら拾えるのである。

それが人によって「明るい見通し」なのか、それとも「破壊的な望み」なのかの違いだからだ。

ずっと前に「遊戯王」にとって、「愛と憎しみは同質なもの」という考察を書いたことがある。

あえてそれに倣って書けば希望と絶望は同質なものだ。

絶望がそばにあるのに希望がないはずがない。これは私の持論だ。

 


“人が希望を超え、夢を抱くとき、遥かなる彼方に、新たな未来が現れる!”


しっかりとビヨンド・ザ・ホープに書かれてましたね(^^;

やはり、私の認識はあっていたようです。

(近い未来に)希望があり、(遠い未来に)夢が来るのだと。(誰だよ絶望とかいったやつ)。

あれほど、デュエルチャンピオンの夢を抱いていた遊馬、実は特にⅡになってから、ほとんど「夢」の話をしなくなった。

1話から「俺はデュエルチャンピオンを目指す」と言ってましたからね。

あれほど、目をキラキラさせて何事にもまっすぐに進む彼。


その書き方に私はうなったわけだが、それでも、歌詞に出てくる「夢」が非常に気になってはいた。


仮に、ゼアルが全編を通して「希望の変遷」を描いていたのだとすれば、最終で「希望と夢(未来)」の戦いを密かに描いていたとも思える。

確かにラストはそれに近い。


“人が希望を超え、夢を抱くとき、遥かなる彼方に、新たな未来が現れる!”


遊馬たちもうすうすは「希望」の限界を知っていたのかもしれません。

希望の次は、ズバリ「夢!」


……ここまで書いて夢の考察が進みませんのでこの辺にしてください(^^;

 

アストラルの希望

 遊馬の物語はそのままアストラルの物語となる。

 おそらく、アストラルはエリファスと同位の「神」であるといえる。

 神は願ったり、望んだりしてはいけないのか。

 むしろ、人間は神に好き放題に自分の希望を述べる。それは人間の特権だ。少なくとも神のできることではない。

 今回の「ヌメロンコード」の使い方を彼は「私はバリアン世界を滅ぼし、遊馬の記憶を消す」といった。

 本来そうなったであろう未来。

 勿論、これは遊馬に「はっぱをかける」ための嘘ではあったが、その使い方ひとつにしても、彼は遊馬たちが住まう世界の人々と触れ合うことによって、彼もバリアン世界の扱いを変えなくてはいけなくなった。

 それは必然なのか? それとも、アストラル世界の人々が願ったことだろうか……。

 それとも、遊馬が願ったからだろうか。

 いいや、アストラル自身が願いを素直にかなえたである。