【人物考察】九十九遊馬
小さな希望を抱く少年が、大きな希望を抱かれるまでの英雄の物語
遊戯王ゼアルの物語を端的に話すとこんな感じになります。
遊戯王にヒロイックを求めるか……。
原作は非常に規模が小さかったですね。
ヒロイック要素なんてなく、ただただ、本気で遊び、デュエルしてました。
私は原作から入りましたが、遊戯王にヒロイックを求めるようになったのは、DMのドーマ編あたりからだと思います。
なんで遊戯王の主人公、毎回世界を救ってるんだろう…と思ったそこのあなた!
一回原作を見てみることをおススメしておきますよ!
最近本屋さんに言ったら、遊戯王の文庫版が置いていないんですね……さみしいですね。
そんなヒロイックのはびこった遊戯王にさっそうと現れた一人の少年。
それが九十九遊馬君、その人。
年齢は13歳。
13歳といえば、中学校に入りたてで、思春期という時期もあり自分が「大人なのか、子供なのか」、「自分は何者なのか」「自分はこれからどうしていくべきか」を深く考える時期です。
そんな彼には両親がおらず、本来その時期にいるはずの「自分に真剣に向き合ってくれる」存在がいませんでした。
そのため、心は育たず、がむしゃらで、また、純真なところが多く残っています。
そんな両親は、遺言のごとく「かっとビング」精神を残して消えていきます。
ここまで書いて、何かくらいものがあるなぁと思った人、それ、間違いではないです。
今回はそんな遊馬の「闇事情」を少し書いていきたいと思います。
【遊馬の自己犠牲】
遊馬はまるで聖人のように困っている人を見捨ててはいけない性質だ。
そして、まるでおとぎ話のような「〇〇をしたらみんなともだち」(ここには勿論「デュエル」が入る)を真剣に信じている。
人によってはそれを「迷信」だとか「宗教」だとか言って、毛嫌いする人もいるかもしれない。
理想が高く、それを守ろうとする心は、人をひきつけ、あるいは尊敬のまなざしを送る人もいるだろう。
勿論、そんな心をくだらないといって闇に貶めようとする人もいる、そう、彼のベクターのように。
私はそれを「英雄性」ということにしたい。ここではそう称しておく。
ただ、「人を信じたい」という思いは、そのままダイレクトに「自分を信じたい」という言葉に置き換わる。
「人を信じた先に自分がいる」とでも思うのだろうか。
そう、遊馬の最大の弱点は「自分」なのである。
遊馬は私は自分に無頓着、というのが一番しっくりくるかなと思っている。
小鳥やアストラルは遊馬を馬鹿だメンマだへちまだと、言いたい放題であるが、だいたい正しい。
遅刻し、失敗し、負けることも多々ある彼は、自分すら大事にできない大馬鹿野郎だ。
第1話の遊馬のセリフ
「いくら失敗したって、いくら笑われたって今までかっとび続けてきたのは
俺が俺自身を信じてきたからだ!」
……本当ですかね。
お分かりの通り、デュエルカウンセラー、遊馬先生、遊馬菩薩大明神などと祭り上げられる彼ですが、作中一番説得力がないセリフはむしろこれかなと個人的には思います。
私はこの遊馬の年齢的に不適合な「自分のなさ」がずっとひっかかっていた。
遊馬は人を大切にする、そして、大切にするがゆえに、他人を優先するがゆえに自分を存外に扱うところもある。
それを俗に「自己犠牲」と呼ぶ。
少し余談。自己犠牲を尊ぶキャラは原作の表遊戯でしたね。
彼の場合、「怒り」のコントロールがうまくいかなくて、そのまま「怒り」を闇遊戯に体現してもらっていました。
表遊戯との比較でいえば、表遊戯は「怒り」をそのまま闇遊戯に任せている反面、遊馬は「悲しみ」のコントロールが苦手。
かといって、その苦手を相棒たるアストラルで克服できるわけでもないので、若干詰んでる。
【遊戯王ゼアルは「希望」の変遷の物語である】
“夢じゃない 道は続いてる いざ 絶望の彼方へ…”
希望皇ホープは、文字通り、遊馬たちの希望そのものだった。
しかし、遊馬たちの活躍が増えることによって、または、遊馬の心に打たれた人が増えたことによって、遊馬は「希望を抱かれる」存在となっていった。
世界を守れ、バリアンを止めろ、ドン・サウザンドを倒せ……。
遊馬はそれを「人のためだ」と言って喜び勇んでいく。
仕方がない、それが彼の性だ。
殊、遊馬にとって「ささやかな願い」であった「希望」。
ゲームに勝利することが、多くの仲間に会える喜びを与えてくれたもの。
しかし、物語が進む中で、希望皇ホープは何度もその姿を変え、より強く、より強固な存在となっていく。
まるで、遊馬の「仲間を守りたい」という気持ちが全面的に表れたように。
「勝ちたい」という欲求が「勝たなければならない」という義務に変わっていけば、それは自然にそうなっていくだろう。
カードは「心」だという。
遊馬のまっすぐで、揺らがない心がこれほどまで表れているカードは他にはない。
……まったくの余談になるのですが、希望皇ホープに関連するカードはどのカードも「殺意」に満ちている。
ともっぱらのうわさらしいのですが。
確かに、そんなん、そーなるわ。しゃーないです。
誰だよ、そんなこと考えたやつは…。
アニヲタwikiがかなり優秀だったので、画面の前で大爆笑していました。
気になる方はggってみるよいと思います。
ここで、原点に戻ろうか。
「希望皇ホープ」やナンバーズの物語はパンドラの箱の話が元ネタになっている。
ゼウスがパンドラに持たせた、あらゆる災いの詰まった箱(本来は壺)。彼女が地上に着いたとき好奇心から開けたところ、すべての災いが地上に飛び出したが、急いでふたをしたので希望だけが残ったという。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%AE%B1/
引用終わり
もし、「希望皇ホープ」の物語をそのままパンドラの箱の物語に当てはめるとするならば、おそらく、パンドラの箱を開いたときに出て行った「災厄」と同じく、「希望」も「災厄の一つ」だったのだろう、と私は考えている。
しかも、手元に残っただけ、ほかの災厄と違って性質が悪い。
遊馬は「希望皇ホープ」を含めて、多くの災厄と戦わなくてはいけなくなった。
もし、一番の災厄が何かかというと、それは手元に残った「希望皇ホープ」だったのだろう。
果たして、物語の果てに見る希望とは……どんな形をしていたのだろうか。
災厄か? それとも……。
【アストラルが救ったものは遊馬の『自分自身』である】
アストラルは唯一遊馬の心に携われる存在である。
自分は遊馬にのっとろうとして、できなかったらしいが、その際は、何か弱み的なものを見せびらかしたかったのだろうか。
第23話のアストラルのセリフ
「私は君に魅せられている。遊馬と同じものを持っている君にね。
そうだ。私は遊馬にのりうつろうとした。だから、彼の心を感じることができる。
遊馬の心の奥にあるのは、両親を失った悲しみ……
そして、悲しみの中で両親の教えを信じて生きていこうと、あがきもがいている」
アストラルは、遊馬の心から「悲しみ」を感じ、理解していた。
しかも、結構早い段階で。さすが、ヒロインだわ。
第84話のアストラルのセリフ
「遊馬よ…、今君は身も心も傷ついている。
遊馬…君の迷い、恐れ、苦しみが手に取るように伝わってくる」
アストラルは、他人から期待され、人々の文字通り「希望」となっていく少年の姿に、責任と不安を感じていたのだろう。
ちなみに、物語終盤になると、Ⅲ、Ⅴ、カイト、仕舞いには、小鳥まで遊馬を「希望」と言っている。
私は当時一視聴者として「希望希望うるさいんだよ」(ホープさんの悪口ではないのであしからず)と思っていたのだが、やはり、これにもきっちりとからくりがあったようだ。
人から希望と称されるたびに、悲しみ、苦しみ、のしかかる、使命と重圧。
「英雄」という存在は、常に「自分を捨てて」人のために尽くす。
自分の中の悲しみに飲まれてもいけない、常に自分を殺す。
そして、これは遊馬の性格上「自分のことは二の次」で、「そんなのお構いなし」ではある。
しかし、もともとの性格と、事の成り行きによって、彼はがんじがらめになっていき、身動きがとれなくなる。
希望は「抱くもの」から「抱かれる」ものとなってしまった。
勿論、アストラルはそれもひっくるめて自分が遊馬と一緒に背負っているつもりだった。
しかし、独り立ちをするには、彼の心は弱すぎた。
アストラルを失った彼がどんな悲しみを受けるか、それは112話以降を見れば一発でお分かりのことだろう。
そんながんじがらめな状態をどうにか解消しようと、アストラルは、遊馬を取り戻すために奔走するのである。
145話のアストラルのセリフ
「取り戻すんだ!君自身が失ってしまった、一番大切なものを!」
その答えは、アストラルでも、シャークでもなく、自分自身という存在である。
そして、おそらくが希望という名の未来、未来皇ホープという存在。
見事、彼は希望を「抱くもの」へと変化させたのだ。
……最後がうまくまとまらない(^^;
ので、このあたりでまとめておきます。
遊戯王ゼアルという作品はそのままダイレクトに「希望の変遷」の物語である。
同時に遊馬は希望を背負わされることによって、自分の望みを失っていく。
それを取り戻せる唯一無二の存在がアストラルという存在だった。
ここまで読んでくれてありがとう、愛してるぜ。
また続きができたら書きたいと思います。
次回はアストラルに関してかもしれません。(プロットないです…)