遊戯王ゼアルの考察と謎

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遊馬は「哀しみ」を持った主人公

【悲しみを受け入れろ、主人公の苦難】

原作遊戯王の表遊戯は怒りの体現ができませんでした。

怒りを全て闇遊戯に背負ってもらっていました。

この「怒り」に自分自身が気づくことにより、闇遊戯を受け入れ成長していく。


遊戯王の主人公たちはそれぞれ「喜怒哀楽」を1つずつ体現させていると思っていた。

少なくとも、表遊戯と闇遊戯の「それ」は勿論「怒り」である。

遊戯は「怒り」、十代は「楽しさ」、遊星が「喜び」を表しているのなら、5D’sが終わった段階で、次の主人公は勿論「哀しみ」を持った主人公が来る、とシリーズが続きながら考えていたのだが……

はて、遊戯王で哀しみを描くのだろうか? どう主人公に哀しみを持たせるのか? と思ってはいました。

最初は、遊馬って絶対泣かないキャラだと思ってました。

 

いや、「喜怒哀楽説」も終わり…と思ったら、実は後半から雲行きが怪しくなっていく。

 

……案の定来たよ、これ。


意図的に遊馬については「哀しみ」を特に強調して描いている。

勿論、元気いっぱい、天真爛漫さが強みな彼であるのだが、その反面、暗いものは確かにある。

ともかく、遊馬は泣く。

おそらく、本編でも、表遊戯以上に涙を流す描写が圧倒的に多い。

……なんでこうなった。


やっぱり、主人公喜怒哀楽説は存在したのだな!(違う)

一つアニメの制作事情を考慮すると、それぐらいメリハリつけてないと、主人公ってかぶりやすいですからね…考えてるな。

ちなみに、「喜怒哀楽」すべての感情を一緒くたにしたのが、ARC-Vというね(^^;

遊矢=怒り(遊戯)、ユーリ=楽しさ(十代)、ユーゴ=喜び(遊星)、ユート=哀しみ(遊馬)ととらえると、ちゃんと合ってますね!

若干、十代と遊星が不安だけど…w もしかしたら、逆かなと思うけど、そこは皆さまのご判断にお任せします。

遊矢が再び巡り巡って「怒り」というものに支配され、コントロールがきかなくなるのだけど、これって、要するに原作遊戯王に「原点回帰」してるんですね。

VRAINS以降は「感情シリーズ」ないので心配ないです。


確かに遊馬は「悲しみ」というコントロールが苦手であった。

これは、遊戯の「怒り」のコントロールが苦手なことと同じである。


最初遊馬の圧倒的な明るさに騙されがちだが、23話でアストラルは彼のことをカイトの会話の中でこう称している。


「私は君に魅せられている。遊馬と同じものを持っている君にね。

 そうだ。私は遊馬に乗り移ろうとした。

 だから、彼の心を感じることができる。

 遊馬の心の奥にあるのは、両親を失った悲しみ……

 そして、悲しみの中で両親の教えを信じて生きていこうと、あがきもがいている」


アストラルがこの時「悲しみ」という本質を遊馬の中から見出している。

さすがアストラルやな、とは思うのだが、このセリフ、よく聞けば結構フラグじゃないか。等と思ってしまう私がいた。

そう思うに至った経緯は勿論、19話で遊馬が話した父と母の話である。

そもそも、この「悲しみ」そのものの感情に、遊馬自身が気づいていない、ことが問題なのだ。

 

 


【悲しみを理解せよ】


では、どうして遊馬は悲しみに気づかないのか。

おそらくは父と母がいなくなったことが原因だった。

しかし、彼には父母がいなくとも、仲間も、姉も、祖母もいて、不自由なく生活できている。

そして、父と母からかっとビング精神を受け継いでいる。

その時に「俺って恵まれてるじゃん」と勘違いして、父母を失った悲しみを心の中に抑えてしまった。

本当はもっと甘えたい、もっと教えてもらいたい。

その心を置き去りにし、彼は心の中に封印してしまった。

彼はカウンセリングの天才だとか、遊馬先生だとか言われ、その「人の心の理解」できる早さは確かに尋常ではないのだが、裏を返せば、「自分の心を知ってもらいたい」という、遊馬の慟哭にも似ている。

そして、自分の心を知らずに叫んでいるようでもある。

 

「あいつらはみんな、あんたがいなくてさみしかったんだよ!不安で、泣きたくて、一生懸命だったんだよ!」

 

そう叫ぶ彼の心は、まるで自分の心を語っているかのようだ。


良くも悪くも、この出来事が遊馬の原点である。

もっと真剣にその時自分の感情を理解していれば、ゼアルという作品ももう少し変わっていたかもしれない。


【悲しみの共有】

個人的に、アストラルと闇遊戯は何が違うかというと、闇遊戯が表遊戯の怒りを「共有」しているのに対し、アストラルは理解だけはしているけど、「共有」はしていないのである。

では、相棒のアストラルでもできなかったこの「悲しみの共有」という問題の解決策は誰にあったかというと、おそらく皆さんお気づきなのではないだろうか。

スリー(Ⅲ)、こと、ミハエルである。


Ⅲは後半こそ遊馬の理解者になったが、最初、「似たような境遇」で明るすぎる彼を理解できなかった。


Ⅲは遊馬とのデュエルの果て、「心の悲しみを共有」することで親友になれた。

思えば、遊馬が涙を見せ始めるのは、実はⅢ戦あたりからだった。


Ⅲのおかげで遊馬は、自分の「悲しみ」を表にすることができるようになった。

Ⅲは「一緒に涙を流していい相手」である。


「苦しい時は、一緒に、思い切り泣こう」

それができるのがⅢなのである。


そして、遊馬にとっては最大の試練であったアストラルとの別れの後、真っ先にその「悲しみの共有」すべきと現れたのがⅢだった。

自分の心を露わにできる相手が傍にいてくれることでどれだけ安心できたのか。


それは蝉丸とのデュエルで如実に現れているので、今一度見ていただくことをおススメする。

 


【悲しみを受け入れよ】

「共有」できたらはい、それで終わり。んじゃ何もならんのだよ。

それじゃ、闇遊戯が好き放題やることになる。あくまで「共有」はきっかけに過ぎない。


ここで、少し私の整理のために、原作における遊戯がどう闇遊戯(怒り)を乗り越えたのかお話しさせてもらう。

遊戯は優しい性格のため、物理的にも精神的に他者への「対抗手段」がない。

例えば、同じ少年漫画でいえば、この「物理的対抗手段」は暴力だとか能力だとか言われるものである。

これを「怒り」という感情をきっかけに闇遊戯が現れ、彼が罰ゲームをして裁くのが初代までの流れである。

闇遊戯の存在は遊戯にとって嬉しかったが、この闇遊戯は、遊戯にとっても相手を闇の底に叩き込む、自分の命を勝手に代償にする等、「やりすぎ」と言われる面が節々にあった。

これは同時に遊戯の二面性、闇遊戯を「自分」として受け入れることが大切なことだった。

その「やりすぎ」の部分もふくめて。

そして、どうなったのかというと……遊戯はまず徹底的に闇遊戯をサポートしだすのである。

闇遊戯をサポートし、場合によっては「主人公」の立場さえ放棄する。

いわば、ピンチヒッター的な役割に自らがシフトすることによって、闇遊戯を信じて任せる。

それまではほぼ「強引に」闇遊戯が出番を奪っていたが、そうではない、「君はいていいんだよ」をしっかりと教え、闇遊戯を自ら解放しているのである。

そして、自分は闇遊戯に「何かあったとき」のためにひたすら出番を待ち続けるのである。

それをマリクや瀬人に「器」「からっぽ」等と皮肉られたりするが、そこはまったく気にしていない。

自分が信じている相手を疑うようなことはしないだろう。

結果的に、その「サポート面」で遊戯は成長していくことになるとは何とも皮肉だな、等と思ってしまうわけではあるがw

個人的にそういう成長の仕方もいいなと思ってしまうのはどうしてなのか。

 

この遊戯のサポート面をカバーしているのが、遊馬にとってはアストラルなのであるが、遊戯はあくまで個人の問題、そして、アストラルは完璧に相手の問題になるので、遊戯の解決策がそのまま遊馬に向かうことはない。

アストラルにとっては「別に遊馬のことだし、関係ねえよ」で別に問題はないのである。本来ならば。


本来、遊馬はこの「哀しみ」に自分自身で気づき、受け入れ、乗り越えなければならない。

しかし、結構頑固でなかなかそれを認めなかった彼。

そこで、アストラルがそこに気づいて、おそらく、しっかりと遊馬に「哀しみ」という存在を認めさせた。

そりゃ、もう、遊戯並みに「徹底的」にそうさせた。

ともかく、後半泣き通しではあったが、敢えてアストラルは何も言わなかった。

まるで、今までの13年間分、泣けと言われているかのよう。

「泣くな、お前の肩には希望が…」云々言ってたのは、カイトさんですよね。


「絶対泣かない」と言いつつ何度も泣いちゃうのが遊馬である。


だが、別に放置していたわけではない。


アストラル自身もドン・サウザンドと戦い、エリファスを失ったとき

「泣いてなどいられないのだな」

と自分を鼓舞していたが、遊馬にはそれを求めなかった。


「だが運命は過酷な苦難を与えた。

 君は身も心もボロボロになりながら、耐え、乗り越え、私たちに勝利をもたらしてくれた。

 しかし、それは君自身が気づかないうちに、君から一番大切なものを奪ってしまった。

 だから、私は……」(145話)


遊馬は「一番大切なもの」は自分だといった。

この話を書いたときに「笑顔が涙にとってかわられた」という言葉が頭に浮かんだ。

おそらく、アストラル曰く、遊馬の「一番大切なもの」は「笑顔」だったのだろう。


個人的には、遊馬が自分の「本質」(哀しみ)に気づき、笑顔を取り戻すまでをラストのアストラル戦で書いているような気がする。

要するに遊馬、そもそも、泣き虫やねん、って話で…。


こんな話をするとアレなんだけど、「溺れる」という字は「水に弱い」と書くのです。

おそらく遊馬は涙におぼれ、自分を失っていたのでしょうね。

(この話が自分が好きなだけですw)

 

ここまで書いて誤解してほしくないのは別に「泣くこと」そのものを否定しているわけではないです。(遊戯の怒りも一緒ですけどね)。