遊戯王ゼアルの考察と謎

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【人物考察】ベクター 純粋という名の害悪

【人物考察】ベクター 純粋という名の害悪

 

遊馬の考察がだいたい煮詰まってきたので、もうそろそろ七皇を取り上げようかなぁと思います。
今回は、ベクターをやります。
というか、このキャラ、あまりにも「メタ」すぎるので、考察にしては簡単になるかななぁ。等と思います。


ベクターがアストラルに渡したナンバーズを覚えていらっしゃるだろうか。
「リミテッド・バリアンズ・フォース」じゃないよ。

答えは「マスター・キービートル」……そう、「キー」、つまり、鍵。
ピーン、と来た人は考察慣れてますね。

「鍵」とはすなわち「皇の鍵」である。実は、ものすごい「遊馬」に対してのメタキャラ。

遊馬とアストラルの関係の対として、NO.96やドン・サウザンドと組ませるなど、やはり、どこかしら遊馬と対になる存在として物語を駆け巡っている。

思えば、過去のナッシュとの対決も、遊馬とナッシュの戦いになることへの「示唆」ともとれるわけです。

 

ま、ベタベタだけにわかりやすいですですよね、ベクターって(^^;

 

ベクターは純粋なキャラ】

いやいや、ゲスでしょ、どう見ても。という方もいらっしゃるかもしれませんが、それは個人の感想。

私がベクターを見たときは、遊馬と同じですかね。この純粋さ、好きだなぁと。

トロンとかフェイカーなんかよりも、ずっと単純で簡単なんですよ。

トロン、フェイカー、シャーク。みんな「信念」を以て悪事を働いていた。あるいは、それを突き通そうとした。

しかし、「純粋悪」をベクターはひたすら通している。

そこには信念も希望も何もない、ひたすらに「悪」を貫くだけの存在。

その「純粋さ」が真月零にももろ表れている。

真月零というキャラクターはベクターの文字通り「影」だった。


では、どうしてそこまで「純粋」でいられたのか。ちょいと語っていきたいと思います。


【「何事も達成できていない」ベクターのジレンマ】


ベクターといえば、過去のナッシュとの対決では敗北。

七皇になったと思ったら、七皇のナッシュがリーダーになってるし、その下につかないといけない。(ジレンマやなぁw)

フェイカーを操って、ゼアルに負ける。

真月零として登場し、遊馬とアストラルを瓦解させようとして返り討ち。

ついでに、ナッシュに追撃されて自滅。ドン・サウザンドを利用したつもりが、利用された挙句に生贄化。


……なんだ、この敗北の歴史は!


その中で唯一彼のほめるべき点は、まぁ、ナッシュを人間世界に送ったぐらいでしょうか。

しかも、そのナッシュが、敵対すべき遊馬とアストラルと親友になっちゃうので、結果的にあんまりよろしくない結果に収まったように思える。

 


ベクターは「純粋」……要するに「子供」なのである。

よくピーターパンシンドロームアダルト・チルドレン、等と言われますが、その傾向に近い。そして、ベクターが「大人」になれない理由は、「何も自分の手で成し遂げてはいないから」である。

自分のしてきたことに「責任」を以て行動し、その結果を得られたのであれば、それなりに自信もつくが、彼はその「責任」すらドン・サウザンドに奪われてしまった。

自分の運命すら誰かに決められる。

以来、彼は「自分とは何か」を延々と悩み続けるが、その心を打ち明けられる友もいない。

そうなると、誰も信じられなくなって、孤独になっていく。

そりゃね、世界を憎みたくなる気持ちも、ナッシュを恨みたくなる気持ちもわかるわ。

「孤独」と「純粋」を持て余した彼は、結局は「悪」を行使し、人を蔑むことで「感情」を、もとい、快感を得るようになっていく。

「感情」に左右され続け、自制心を失い、心を壊してしまったのだ。


そうなると、やはり、結果も歴然。

やることなすこと、失敗ばかりで、成功例がない。そして、そんな自分をさらに恨んで無限ループ。

人を傷つけることだけが、唯一、腐りきった自分を慰める方法。


ベクターの心の奥底には「どうすることもできない自分の幼子が、泣きわめいている」姿が見えなくないか。


そして、最終的に、自ら導き出した答えが「自分はドン・サウザンドの生贄」……もうやだ、バリアン世界。

 

 


……うん、ここまで書いて「ドンさん許さん」と思ってしまった(^^;

本当、救いようがねえな。

 

 


最終的には、自分の贄の人生と人生を狂わせたドン・サウザンドへ立ち向かうわけではあるが、それでも、遅すぎる気がしないでもない。

そこで協力してドン・サウザンドを倒せればまた別なのではあるが、長年孤独にさいなまれた彼に、果たして「協力」や「結束」等という言葉があるのだろうか。

 


その解決策はシャークにあった。しかし、彼の胸にあるのは「結束の力」…もとい「千年パズル」ではなく、バリアンズシール。

残念ながら、ベクターを救うためには、バリアン七皇の力だけでは足りないのである。


やはり、

「絆で明日を 繋いでいこう!」

遊馬たちの結束の力が必要だったのか。

 


【ドン・サウザンドは何故それまでベクター固執したか】

 

七皇は、「アストラル世界に行くべき」魂を利用し、運命をゆがめ、バリアン世界に転生させた。

ベクターの純粋さは「高貴、高潔」を以て本来ならば、アストラル世界に向かったのだろう。


……というより、個人的には、このベクター

彼に「両親殺し」という罪をかぶせ、狂気に導かせたのち、ナッシュと戦わせる運命を選ばせた。

要するに、ナッシュのための土台作り、もとい、「当て馬」的な役割ではなかったのか。

何故なら、ポセイドン王国には、ナッシュ、メラグ、ドルベという3名も引き抜きたい人物がいたからである。

しかも、その中でとりわけナッシュに関しては、自らバリアン世界に来るように仕向けなければならないので、そこに狂気を助長させて、敵対関係を作り上げた。


そりゃね、ベクターがナッシュを恨んで、1億ポイント貯める気持ちがわかるよ!

当て馬にされた挙句、転生先でも上司になってるんだから。

 

ドン「安心せい、ちゃんと七皇の席は用意しておいてやる。ただし、ナッシュが上司な」

ベク「……」

 

【遊馬にとってのベクターとは】

 

「似たもの同士は反発する」

磁石のNとNがくっつかないように、人間の精神もまた「似たような人間」と相対したときに、自然と反発しあうものだ。

そもそも、遊馬とベクターはお互いに「人心掌握」に長けている。

遊馬は人の「心」を互いに分かり合おうとするのに対し、ベクターはそれを悪用し、自分のためにひたすら利用する。

やっぱり、ベクターが「鍵」を持っているキャラクターだということなのだろう。

これは勿論、「キーパーソン」という意味でもある。

詳しくは「皇の鍵と千年錠」で見てもらいたいのだが、遊馬の「皇の鍵(=千年錠)」がベクターの場合、NO.66マスター・キービートルとなっているわけだ。


何より、二人が持つ「純粋」は遊馬にとってもベクターにとっても「認めたくない自分」そのものだと見て取れる。
勿論、遊馬とベクターの「純粋」の内容には違いがあるのだが、それでも、同じ「純粋」を所持している存在であることには変わりがない。

私的には遊馬の純粋はいずれ小さくならなくてはいけない「成長に必要な過程」であるのに対し、ベクターの純粋さは肥大化し、自分では抑えこめなくなっているもの。だと思っている。

というよりかは、ベクターはそんな遊馬を見ていても、どこか「自分」を彷彿とさせるために消滅させようと思っていたに違いない。自分を認めたくない、どころか、許したくない、消し去りたい。人を蔑み、裏切り、傷つけることが容易である彼は、そんな思考に結びつくのは簡単なことだ。


「遊馬…、悔しがって叫ぶさまはいつ見ても快感だぜ」

 

加虐心ばかりがはぐくまれ、自分の姿が他人に投影されようものなら、そのものの破壊や消滅を安易に願うのである。

 


ただ、ベクターがやらかしてしまったのは、その「純粋」をこともあろうか、真月零で出してしまったこと。

真月として遊馬の心につけいり、弱らせるところまではよかったのだが、それ以上に自分の弱みをさらけ出しすぎた。

しかも、相手は「人心掌握」の達人。少し前にも書きましたが、「皇の鍵」の力は「他人の心を暴く」力。

堂々と急所を教えてしまっているみたいなものですから、遊馬にそれがわからないハズがない。

 

遊馬がベクターを最後の最後で助けようとしたのは、「遊馬とベクターそもそもが、似通った存在だと確信している」だからだと思っている。

憎みたくても憎み切れない。

もしかしたらあり得たかもしれない自分自身がそこにいるような気がして、放っておけない。

そもそも、ベクターの敗北を重ねた人生に、自分の「アストラルと出会う前の自分自身」が否が応でも重なるはずだ。

言うならば、遊馬の挑戦の精神「かっとビング」が、ベクターの場合は、ただから回っているのである。


運命というのは、1歩道を踏み間違えただけでも、大きく違ってくる。

そのきっかけがドン・サウザンドだった。

ベクターの場合、その1歩1歩の積み重ねが最悪の結果を生み出しているに過ぎないのである。


遊馬は真月の「純粋」に騙されたが、ベクターはどこまでも「純粋」なる「悪」を通し続ける。

遊馬は1歩の差で、自滅する運命を迎えたかもしれないと思うとやはり、放ってはおけない。


例えば、自分が出会ったのがアストラルではなく、ドン・サウザンドだったら?

アストラルと出会うことで、彼は「負け続ける」人生に終止符を打ち、仲間や絆や目標ができた。

言い換えれば、その出会いも「奇跡」みたいなものである。

アストラルと出会わなかったら、ドン・サウザンドと出会っていたら……未来は違っただろう。


「だったら…、もう1回信じる! 心がないなら、心ができるまで、俺は信じる! それが俺のかっとビングだ!」


そんなベクターの悲劇、彼の運命を、そして、ベクターの心を受け入れ、「やり直し」をしようと提案する。

思えば、初ゼアルⅡ、ベクター戦の時も「リ・コントラクト・ユニバース」(世界を『再構築』する)力でした。

ベクターと「やり直し」はリンクしていたんですね。

アストラルが遊馬の支えになってくれたように、ベクターの支えに、今度は自分がなろうとする。

「一歩」でいいんですよ。一歩の引き寄せが、うまくことを運ばせるのです。


「だったら、俺の道連れになってくれよ! 俺と一緒に逝ってくれよ…! 遊馬ぁ…!!」

「ああ、いいぜ、真月。お前を一人になんてさせない、俺がお前を守ってやる」


遊馬はベクターの悠久の孤独に「運命や境遇を共有する」ことで、一筋の光明を見出した。あとは、ベクターが変わるのを待つだけである。

 

 

 

追記:ここまで書いて、やっぱり、ドンさん許されなかったです。

 

 

これは自分でもまとめて好きだったので転載。

同じこと書いているので。

anosoranomuko.hatenablog.com

 

の後半ですね。

勢いで書いちゃいましたが、結構いいところ突いてると思ってます。

 

皆が「ベクターは救われない」と話すので、個人的には遊戯王的には「ベクターほど救われないはずがないキャラクターはいない」と思っています。

逆を考えれば、ベクターが救われなければ、覇王化した十代も人をさんざん苦しめた瀬人もマリクも、同じように救われないはずなのですよ。

個人的にベクターが役得なのは、本当に「遊戯王ルールにのっとって救済されてる」からなんですよね。

逆を言えば、「問題提起」に一役買っている。

 

ベクターの問題って「孤独」なんですよ。
結局、信頼できる相手がいなかったとか、相談相手がいなかったとか、まぁ、1期初期のアストラルに似ているといえば似ているのですが。
だから、努力家で計算を怠らない部分は十二分に評価できるのですが、「人間の信じる心」とか、可能性とか、「人間の関係性」の中で生まれることに関しては、めっぽう弱いんですね。
彼が1人で戦わず、仲間と協力して追い込めば、遊馬たちは負けていたかもしれません。
ま、1人で戦うからベクターって格好いいっていうのは勿論あるのですが。

 

「三人寄らば文殊の知恵」ではありませんが、1人で解決できないことを他人との関わり…、「関係性」の中から解決しようというのが、遊戯王の原作から続く問題提起ですから、そういう意味では、遊戯王の「問題提起」としてはすごい役得なキャラクターともいえます。だから、最後、ベクターは救われるんですけどね。

 

ただし、ベクターが「人との関わり」を拒絶し引きこもっていた場合(その究極がドン・サウザンドなわけですが)、救われることはなかったでしょう。どんな状況でも勇気をもって1歩踏み出した人間こそ勝つのです。

「関わり」が味方か敵か、正義か悪かはほとんど関係ない。何度もぶつかれば、そのシグナルは誰かが受け取ってくれる。今回遊馬というキャラクターが受け取った。ミザエルの場合はカイトが受け取った。1期ではトロンも同じです。

 

原作遊戯王では、おそらくその「関係性」…仲間たちの絆による解決策を「結束の力」と呼んでいるのです。本当、うまく言い得たものです。

ゼアルでは「結束の力」という単語が出てきませんが、遊馬はばっちりそのスピリットを持っているので問題ありません。逆にシャークになくて大変だったりするのですがw

 

私が遊戯王好きな理由はここなんです。「悪」をすっかり解放して思う存分暴れられる、悪を「いてもいいんだ」と許容できる世界なんですよね。

そりゃ、闇遊戯という「悪」が主人公なんだから、問題解決は「正義と悪」という問題から切り離されなければいけないのは当然なんだけど…。

 

だから、好き放題暴れているNO.96がアストラルよりも好きなんですが(笑) 3DSのWDC、カードプロテクター遊馬で、フィールドNO.96なので、いろいろ察してください。ベクターベクターで、衝撃の真実さらした後のほうが落ち着いてみられるという…何それ。

 

ちなみに、そんなドン・サウザンドのような卑怯者、他人との関係を拒絶した者、「引きこもりこそ救われるべき」というテーマで書いたのがアークファイブのBB戦。うん、いいこと言ってたんですよ。視聴者がつかめなかっただけで。

しかも、何を思ったのか最後らへんに持ってきたので余計にわからなくなり、尺稼ぎだとかさんざん言われてましたが、これはいい問題提起でした。ただ、他の人に伝わったのかは本当によくわかりません。

ちなみに、ゼアルではドックちゃんとキャットちゃんのデュエルでそんなことをテーマにしていたように思います。

ドン・サウザンドもそうですが、NO.96も他人との関わりを拒絶しまくったキャラですよね。

 

次作VRAINSは仮想現実を使って、「引きこもりで何が悪い」という一種の開き直りをしましたよね。別に悪いことではないですが、リンクス宣伝…そうですか(汗)。そりゃ、指摘されてた通り、キャラクターはみんな「孤独」にもなるわ。

また、SEVENSで外に出始めるようになって、やっぱり、このほうが遊戯王的に落ち着くと思ってしまいますね。

 

……救われると言ったら変かな。「手を差し伸べられるべき」だと思います。

遊馬はうまくベクターに手を差し伸べただけです。

その手にどう応じようとするのか、それは自分自身に委ねられただけなのです。

 

 

【後日談】

ここまで書いて、あまりにも後日談がないので、少し書きます。

ベクターが今後必要になってくるのは「決断力」と「成功体験」でしょう。

物事の裏で暗躍するのではなく、時には、自ら何かを発信しながら、物語の舞台の中心的な役割になっていくのがベクターが救われる道ではないかなと思います。

個人的には目指すべき理想像は、5D'sのジャックかな。と思ったりもする。悪魔族メインだし、主人公のメタキャラだし、相性はいいと思います。

ちなみに、こんな動画があるので見てみることをおススメしておきます。

 

nico.ms


遊戯王の主人公がもれなくサポート系、フォロー系主人公に陥ってしまいがちなので、実は、活躍のチャンスはあるのである。

手品師とか、いいですよね。

まぁ、キャラクターの今後を邪推するのはよくないですが、それだけ愛されたキャラだけに今後が気になるキャラクターでもあります。