遊馬とアストラルの変遷 遊びと武器の狭間-2/3
【1期は、アストラルから遊馬へのアプローチである】
1期は何かって言ったらおそらく「観察結果」が全てを物語っています。
数でわかると思います。1期で18、Ⅱ期では、漫才含めて4。1期で監察結果が重要な意味がお分かりいただけるでしょう。地味に好きだったので、後半待ち望んでいたんですけどね。まぁ、状況が状況だけになくなっちゃいましたが、Ⅱ期はⅡ期で面白いのでいいです。
要するにアストラルから世界観の説明を延々なされるわけです。アストラルの「観察結果」はほとんどが遊馬と周りに関するものです。そして、この「観察結果」……Ⅱ期ではほとんどなくなります。
1期はアストラルの記憶が一度リセットされ、まっさらな状態から文字通り「アストラルの記憶探し」、もとい「自分探し」がスタートします。
アストラルが遊馬を通して人間を知り、心を知るのです。そして、考え方も生き方もまるで違う遊馬の良さに少しずつ気づいていき、アストラルが遊馬を受け入れていく描写がなされるわけです。
まずはアストラルが遊馬を受け入れるのです。
個人的にそう感じるのは、ホープの進化、そして、ゼアルへの進化です。
実はホープの進化、ホープレイへの進化を一番最初にやり始めたのがアストラルなんです。ここで、ホープレイが「カオス化」してアストラルが「仲間のために勝ちたい」という欲求が生じたことにより、なされました。
同じく、ゼアルもまた、ホープレイと同じく「アストラルからのアプローチ」でなされるわけです。
60話から抜粋
アストラル「戦うのは君だ、君が決めればいい」
遊馬「俺が負けたら、お前は消えちまう」
アストラル「デュエルをともにするなかで、私は君から多くのことを学んだ。私は、共に戦えたのが君でよかったと思っている。私は君の選んだ道に従う。それがいかなる道であろうとも」
遊馬「アストラル……お前、なんでそんなこと言うんだよ!もっとわめいたり泣いたりすりゃいいだろ!記憶を取り戻してくれ、このまま消えたくないって。そしたら、俺だって割り切って戦えんだよ。なのに…、なんでだよ…」
個人的にアストラルがすごいと思うのは、この段階で、運命を遊馬に預ける決心をしているんですよ。
そして、アストラルをそう変えてしてしまったのは、残念、遊馬自身なんです。責任とりなさい。
「この状況では、私にできることは何もない。君のデュエルだ、君が考え君が決めるんだ」(62話)
この状況でもアストラルは遊馬の存在を許容し、遊馬にすべてをゆだねる。
例えるなら、DEATH-T終了時の遊戯状態でしょうか。
遊馬の存在の許容、全肯定。
前に凌牙の強みは「人に絶対の信頼を置く」ということを書いたのですが、結構アストラルというキャラは、Ⅱ期のナッシュのメタとして書かれている節が多いんですよね。だから、凌牙とアストラルは「比較対象」になったりするのですが。
アストラルの強さもおそらく同じで「人に信頼を置ける」強さがあるんです。
ただ、凌牙と違うのは、それが「使命感」や単なる「無知」。
彼の精神的な幼さゆえの依存的な信頼でもある。要するに「すがり」ともとれるわけです。
その原因は、勿論、Ⅱ期で明らかになる「アストラル世界」の構造や、アストラルの存在意義に関わってくるからなんです。全てがそうではないのですが、「まぁ弱みもありますよ」程度のにおわせなのですが。
それをⅡ期でベクターによってかき回されかき回され……、それがどうなっていったかは、皆さんご存じのことでしょう。
これは、wikiからの引用なんですが、これで正解かなぁと思います。
1期では「信じるしかない」のですが、Ⅱ期では「信じたい」という言葉に代わる。
1期のアストラルの「受け入れ」とはほとんど「受け身」。
本当の信頼とは、「自分からの発信」が必要。
相手からの発信を受け入れ、ともに成長していくということ。
Ⅱ期ではそれこそアストラルの心理描写が減っていくのですが、代わりにアストラルの主張が激しくなっていくのです。
遊馬「お前、俺に似てきた…?」
アストラル「…それはない」
【Ⅱ期は、遊馬からアストラルへのアプローチである】
「俺にとってデュエルとは勝ちも負けも関係ない。俺にとってデュエルはつながりなんだ。俺はデュエルするみんなとつながっていたい」(26話)
1期の遊馬にとってデュエルとは「つながり」。他人のことを知ることができる、他人をつなぐための道具です。
「デュエルをすればそいつの全部がわかる」
遊馬はそう考えていて、しかも、それをきっかけに相手を認め、仲間にしていたのです。それは、敵であり、自分の命を奪おうとしているカイトも、トロンやフェイカーとて例外ではなく、戦った結果、どんなにひどい目にあっても、相手を助けようとしていました。
しかし、アストラルにとって「デュエルは武器」でした。
「デュエルとは神聖な儀式だ」(7話)
と早々に口にするんです。
「勝ったらすべてを手に入れ」、逆に「負けたらすべてを奪われる」というとてもシビアな世界です。
遊戯王を長くみられている方は「うん、知ってた」ぐらいの認識ですが、遊馬にとっては意味不明でしょう。それもそのはず、アストラルは世界の運命を担っているのですから、次元が違います。
遊馬は後半アストラルを失い、アストラル世界に旅立ちます。その時、エリファスに向かってこういいます。
「アストラルはいつも言っていた。デュエルこそは神聖な儀式だって」(118話)
あれほどデュエルを「人のつながり」と言っていた遊馬が、豹変したかのようにデュエルを武器として使いだす。
このセリフが個人的にも「ああ行っちゃわないで、遊馬」と思っちゃうんですよね。
何か悲しいのは、そこに「勝つ必然性」が存在しているように感じるからでしょうか。
闘いの儀の前も「だったらデュエルだ」って怒気をはらんで言うのも、あれも同じですよね。
勿論、それまでも何度も遊馬たちの「命」がかけられた戦いはあったように思います。しかし、その時でさえも、相手とのことを考え、何度も解決策と模索していました。
「勝ちも負けも関係ない」という彼のそもそもの考えから、相当逸脱しているように感じます。
これは誰かが書かれていたのを引用します。
運命の扉がⅡ期冒頭に出てきて「お前は新たなる力を得る。そして、一番大事なものを失う」という。遊馬はこれをアストラルだととらえた。
「アストラル、お前は今じゃ、俺の全部なんだ」
と彼自身が言っています。遊馬はアストラルを失うことに恐怖し、そこからしばらく迷走します。
遊馬は「アストラルを守りたい」と言っていましたが、実際は「対等になりたかった」のだと思います。
アストラルを背負うことを決めた遊馬は、おそらく、アストラルと対等に、それ以上にならなくてはいけないと考えるようになった。
そのためにアストラルの考えをまず受け入れるのです。それは「負け」を許されず、相手を「敵」とすることで切り捨てる、アストラルの本来のデュエルでした。
アストラルにとって、遊馬が自分の考えを受け入れてくれること、守ってくれていること、一緒に戦ってくれることは嬉しいのですよ。ただ、同時に寂しさもあります。アストラルは遊馬の「つながり」のデュエルに救われているのです。少なくとも、「孤独」から解放し、理解者となってくれたのは遊馬でした。
「私と君はともに戦っていくのだ」(84話)
ここで一緒に戦おうと濁していますが、ここで主導権がどちらにあるかと言ったら、勿論アストラルです。
アストラルに遊馬が従う形なんです。1期とは真逆です。
つながりとしてのデュエルはまだあるんですよ。それを守りながら、アストラルに傾倒していくわけです。
一応、アストラルはその意気込みをすべてひっくるめて「一緒に戦おう」と言ってくれました。
本当の、遊馬の物語は…というより、「ここからが始まり」なんですよ。
だから、折れないハートの冒頭「今始まるのさ」なわけです。
地獄にご招待? えっ、まじで。
【アリトは防波堤】
私はバリアンの中では一番アリトが好きかな。お前、熱血キャラが好きなだけじゃ(^^;
でも、熱血キャラでいつつ遊馬の一番揺れ動いている難しい時期に表れている、非常に難しい人物です。
彼は一度「つながり」のデュエルで戦い、最後に和解した人物でした。
しかし、実際は、彼は敵であり、純粋なデュエリストでもありました。
意図的に遊馬と属性が似たキャラにしているのだと思います。
アリト戦では完璧に「アストラルを背負う覚悟」が試されているのです。
結果的に全力で戦うことで、遊馬は意思を示しましたがその後、アストラルがアリトのナンバーズ(おそらく命そのもの)を奪う姿を見て、本当の「戦いの意味」を知ります。
アリトを見て、まだ分かり合えるんじゃないか。という可能性をうかがわせることができますが、結局遺跡編でその希望は打ち砕かれる。勿論、それはドンなんたらが悪いんだけど。
【ベクターは燃料】
その甘さ全部ひっくるめて問題全部解消してくれたのが、ベクターなんですけどね(死)。
本当、ベクさん、いいことしかしてない。
アストラルの言う「ともに戦う意味」の再定義がここでなされる。
遊馬のホープレイVはおそらく、遊馬の進化と個人的にはとらえている。
「ともに戦う」意味を遊馬はホープの進化という形でそれで表してしまった。
いわば「出し抜き」ともとれる。
アストラルからすれば「あの約束忘れちゃったの!?」みたいな(笑)
遊馬の中では「ともに戦う」という決意を持ちつつ、やっぱり、自分へは「このままじゃダメだ」と思っているのですよね。遊馬はアリト、ギラグ戦でフィールド効果で苦しむアストラルを見ていますから。
遊馬からすれば「ともにじゃ遅いんだ、自分だけでも戦えるようにしないと」という焦りでもありますよね。
遊馬というキャラの特性上、遊馬が自分だけで考え込むと、だいたいから回るので、よくない傾向なのですが(笑)
そのわずかな遊馬の心の葛藤を見逃さず、同時に、アストラルの「信頼」の弱さを突き、二人を徹底的に追い込むまではよかったのだ。
実際、アストラルへの「悪のシミ」を作りだし、それを残すことに関しては成果はあったように思います。
アストラルが「敵の手」によって傷つくまでは仕方ないのだけど、これが「自分の手」でゆがめられてしまったために本当の意味で「アストラルを守る決意」を固めてしまった。
バリアンへの共闘…という決意でもありますね。
ベクター戦から、遊馬の捨て台詞が非常に悪くなるんです。わざとでしょうね。
結果的に、ベクター戦にて、遊馬とアストラルの心は一つになりました。
遊馬個人での進化がホープレイVを呼び、二人での進化がホープレイ・ヴィクトりーになるわけです。
ここからは少し脱線します。
これは前に書いたことなので、見ていただきたいのですが、ベクターの問題って「孤独」なんですよ。
結局、信頼できる相手がいなかったとか、相談相手がいなかったとか、まぁ、1期初期のアストラルに似ているといえば似ているのですが。
だから、努力家で計算を怠らない部分は十二分に評価できるのですが、「人間の信じる心」とか、可能性とか、「人間の関係性」の中で生まれることに関しては、めっぽう弱いんですね。
彼が1人で戦わず、仲間と協力して追い込めば、遊馬たちは負けていたかもしれません。
ま、1人で戦うからベクターって格好いいっていうのは勿論あるのですが。
「三人寄らば文殊の知恵」ではありませんが、1人で解決できないことを他人との関わり…、「関係性」の中から解決しようというのが、遊戯王の原作から続く問題提起ですから、そういう意味では、遊戯王の「問題提起」としてはすごい役得なキャラクターともいえます。だから、最後、ベクターは救われるんですけどね。
もし、これを否定されたら、十代も闇遊戯も、そして、瀬人もマリクも重要なキャラはみんな救われておりません。
ただし、ベクターが「人との関わり」を拒絶し引きこもっていた場合(その究極がドン・サウザンドなわけですが)、救われることはなかったでしょう。どんな状況でも勇気をもって1歩踏み出した人間こそ勝つのです。「関わり」が味方か敵か、正義か悪かはほとんど関係ない。何度もぶつかれば、そのシグナルは誰かが受け取ってくれる。今回遊馬というキャラクターが受け取った。ミザエルの場合はカイトが受け取った。1期ではトロンも同じです。
原作遊戯王では、おそらくその「関係性」…仲間たちの絆による解決策を「結束の力」と呼んでいるのです。本当、うまく言い得たものです。
ゼアルでは「結束の力」という単語が出てきませんが、遊馬はばっちりそのスピリットを持っているので問題ありません。逆にシャークになくて大変だったりするのですがw
私が遊戯王好きな理由はここなんです。「悪」をすっかり解放して思う存分暴れられる、悪を「いてもいいんだ」と許容できる世界なんですよね。だから、好き放題暴れているNO.96がアストラルよりも好きなんですが(笑) 3DSのWDC、カードプロテクター遊馬で、フィールドNO.96なので、いろいろ察してください。ベクターもベクターで、衝撃の真実さらした後のほうが落ち着いてみられるという…何それ。
ちなみに、そんなドン・サウザンドのような卑怯者、他人との関係を拒絶した者、「引きこもりこそ救われるべき」というテーマで書いたのがアークファイブのBB戦。うん、いいこと言ってたんですよ。視聴者がつかめなかっただけで。
しかも、何を思ったのか最後らへんに持ってきたので余計にわからなくなり、尺稼ぎだとかさんざん言われてましたが、これはいい問題提起でした。ただ、他の人に伝わったのかは本当によくわかりません。
ちなみに、ゼアルではドックちゃんとキャットちゃんのデュエルでそんなことをテーマにしていたように思います。
次作VRAINSは仮想現実を使って、「引きこもりで何が悪い」という一種の開き直りをしましたよね。別に悪いことではないですが、リンクス宣伝…そうですか(汗)。そりゃ、指摘されてた通り、キャラクターはみんな「孤独」にもなるわ。
また、SEVENSで外に出始めるようになって、やっぱり、このほうが遊戯王的に落ち着くと思ってしまいますね。
……なんか脱線した。
長くなったので、後半は次回に書きます。
3/3へ続く