遊戯王ゼアルの考察と謎

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遊馬とアストラルの変遷 遊びと武器の狭間-1/3

【遊びと武器のはざま】

ゼアル1とⅡになって、かなり雰囲気が変わったように思います。
私は1の前期とⅡの前期が(日常ものだね)が結構好きでした。
逆に真月が出始めてから、不穏すぎて見なくなってしまったこともありました(^^;

1ではあれほど「デュエルをすればみんな友達」と言っていた遊馬、Ⅱ期では、そんなに言うことがなくなりました。……あれ? 不穏???

完全にⅡという作品、1と切り離されているように感じるんです。1つは、遊馬の変化、もう一つは、カイトの変化ですね。凌牙はⅡになって結構盛り返してくるんですよね。特にカイトは後半、ネオ・ギャラクシーをほとんど使っていません。ジンロン戦だけだったんじゃないかな(うろ覚え)。カイトが身内とデュエルすることもありませんでした。もう少しカイトとのデュエル見たかったですね、うーん。カイトの変化については、いつか書くことにしましょう。


【舞台装置としてのゼアル】

そもそもの原因、1期って、おそらくアストラルが遊馬を認めて受け入れていく物語にスポットを当てているのです。……だから、なんかわかりにくいんですよ。

主人公である遊馬の心情がうまく伝わらない。その代わりに、アストラルが鍵のなかで延々悩んでいるシーンも多いんですよね。

視聴者が「アストラル視点で遊馬を見る」という、非常に客観的な描かれ方をしています。

例えば、5話の二人のやり取りを見てみましょうか。


アストラル「裏とはどんな効果なのだ」

遊馬「裏?」

アストラル「どうやら君が嫌われた原因は、その効果にあるようだ」

遊馬「裏ってのは心では言ってることと別のことを考えてるってことだよ」

アストラル「別のことを…。人間にはそのような特性があるのか」

遊馬「人間なら誰だってあるさ」

アストラル「ならば遊馬、何故君にはない」

遊馬「…えっ。あるよ、俺にだって裏くらい…」


こういうやり取り、個人的に好きなんですが、初期のゼアルってこういう描写が多いんですよね。
遊馬のアストラルへの説明フェイズというか。

すごく遊馬をオブラートで包んでいるというか、遊馬の心情を「客観視」させているんですよ。遊馬の悩み、的なことに関しては「敢えて」スポットを当てない。

だから、変な言い方なんですが、バカだけどピンポイントで聖人にも見えるんです。

Ⅱになってから、遊馬もいくらメンタルが強くても、人並みに悩んだり、落ち込んだりする様を見せられるのですが、1期では、視聴者が「アストラル視点」で、遊馬を見せてくるために伝わりにくいんです。

この手法、いささか下手な例えですが、「転生もの」とかなら効果的に使える手法ですが、わざわざゼアルでやる必要あったのか。とちょっと不満です。

例えば、異世界がどういう世界観なのかをざっと説明するために、「メタ」である「第三者」の視点を借りるのです。そうすれば、いわゆる「一般的」な世界と異世界の説明が比較されることによって、異世界を簡易に説明できるようになるのです。
でも、別にゼアルの世界観、前作のように荒廃した世界でもない、普通の現実世界の延長なんだから。
わざわざアストラル視点をもってきて、遊馬を見えにくくしちゃうのはどうなのかなぁと。


まぁね。スタッフさん「一番遊馬書くのが大変」と言ってたから、そういのもあるんでしょうし、一応、遊馬とアストラルは同一人物だったのだから、そこを踏まえると、「アストラルが主人公」という視点で、描きたかったのでしょう。前半アストラルを書いて、後半遊馬を詰めて…みたいな。

慣れた人だったらいいけど、この見せ方は伝わりにくい選択だったと思います。
この辺も「子供向け」じゃない要因の一つかなぁなんてとらえます。

 


唯一「Ⅱ」がついているのは遊戯王ではゼアルだけなんですよね。いや、本当なんで分けたし。
ただ、物語全体を通して、1期とⅡ期は、全然別物を描いている。
前にも言いましたがまず「監察結果」がほとんどなくなり、主人公がアストラルから遊馬へと切り替わる。

1期がアストラル視点で描かれているとしたら、Ⅱ期は、それこそ遊馬の心情がいきいき描かれているんです。それによって、遊馬がどう考えているかが手にとるようにわかる。

 

Ⅱ期出だし、「俺はアストラルを守らなければいけないんだ」みたいな使命感がいきなり生まれたのかと言ったら、そうではなく、1期でも相当思いつめていたんですが、描写がなかっただけです。60話で、泣くぐらい実際は悩んでいた。

 

遊馬「アストラル……お前、なんでそんなこと言うんだよ!もっとわめいたり泣いたりすりゃいいだろ!記憶を取り戻してくれ、このまま消えたくないって。そしたら、俺だって割り切って戦えんだよ。なのに…、なんでだよ…」(60話)

 

私はⅡ期の出だしの遊馬を見て「何がどうした、気が触れたか」と思ってました(すまん)。

遊馬ってキャラはメンタルが強いとか言われますが、結構人並みに悩んだり、落ち込んだりしているんですよね。

 

その代わりに、Ⅱ期はアストラルの心情が逆に見えにくくなっていく。最初の頃はよかったのですが、ベクター戦後、アストラルの心理描写がほとんど消えました。これが地味にラストまで続くので厄介なんです。アストラルが遊馬を信頼している描写は多いのですが、アストラルの表情からすぐにそれを察することができるのかと言ったら、そうでもない。

「私の使命はバリアン世界を滅ぼすこと」

といった後、表情が激変したのですが、ここで1期遊馬のように、今度は「遊馬を通してアストラルを客観視」されるので、アストラルの内心に視聴者が踏み込めない。「これ、本音なの?」という感じ。闘いの儀の前のアストラルも同じですね。

「破壊が望み」かと思いきや、NO.96戦で遊馬を守るために自爆をしてみたり、アストラルの心情もまた結構複雑、かつ「見えない」構成になってるんですよ。
結果論を言いますと…、遊馬に散々影響受けまくったアストラルに、悪役は無理です。


物語の裏と表、二人が「一心同体」…もとは「同じ存在」として描くための、「舞台装置」としては作品のできはいいのです。すごくよくできていますよ。まぁ要するに「劇」だったのね、ゼアルは…みたいな感想に陥るのかもしれないけど、きちんと「狙い」が定められて作られていた。

ラストまで見た人のご褒美、とでもいうんでしょうか。私もBS組でしたが、ラストまでほぼリアルタイムで見て本当に感動してしまいました。

ラストまで見た人にしかたどり着けない面白さはありますよ。私はニコニコで何週もしてます。(見すぎw)

 

まとめると…

 

1期)主=遊馬 従=アストラル

主:メインストーリーにあるように「遊馬が」デュエルチャンピオンを目指す物語を描く。
従:実際は「アストラルが」遊馬を受け入れる描写を描く

 

Ⅱ期)主=アストラル 従=遊馬

主:「アストラルが」世界を救うために奔走する
従:「遊馬が」アストラルを助ける過程で成長していく。


わからんって方は、

「物語の問題点」に対して、「解決策」はもう一方が持っているといえばわかるだろうか。
うん、このほうがわかりやすいですね。

 

1期:遊馬がデュエルチャンピオンを目指す → 解決策はアストラルにある

Ⅱ期:アストラルが世界を救うために奔走する → 解決策は遊馬にある

 

ととらえていただければいいのかな。
本当、構想的には「最後にすべてが詰まってる」みたいな描き方をしてるんですよね。

だから、最後は「マスターピース」…一応「傑作」言葉の意味ですが「千年パズルのピース」のようにすべてが埋まる作品を作ったのだと思います。ゼアルはだいたいマスターピースです。

そう考えると、1期でアストラルがメインとなって描かれていることに関しては、個人は全然問題ないと思うんですね。ただ、遊馬ってキャラが面白いので、結構もったいない気がしますが…。


……とはいえ、Ⅱ期はかなりヘビーです。1期はそうでもなかった。
Ⅱ期の内容って、端的に言えば、遊馬が「遊戯王の歴代主人公と同じわだちを踏む」ことなんですが。
それだけ聞くと「なんだ、簡単なことじゃん」って感じがしますね。

 

結論から述べますね。
遊馬のデュエルに関する考えは「つながり」、アストラルからすれば「武器」です。

アストラルにとっては前提が「武器」、遊馬の「つながり」という考え「も」ある。アストラルに関してはこれで完結するんです、が。
遊馬に関しては、「つながり」と考えていて、それを「武器」としていく。という課題があるのです。
それは単なる「言葉のあや」の問題なのか。

それはこれからお話ししたいと思います。

 

2/3へ続く