遊戯王ゼアルの考察と謎

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皇の鍵と千年錠

 

「皇の鍵」は遊戯王ゼアルの象徴である。
その証拠にOPにて輝き、作中でも何度も意味ありげに光る。

だが、その存在を理解できない人も多いのではないだろうか。
私はできなかった(笑)

最初は、この「皇の鍵」は原作遊戯王の「千年パズル」と同意義だと思っていた。
そして、最後に「皇の鍵」はアストラルとともに、消滅するのだと思っていた。

しかし、実際は、闘いの儀を終えた遊馬の胸の中、なくなることがなかったのだ。
この鍵は「アストラル世界」の象徴、また、そこから「皇」そのものを意とする。

では、この鍵とはいったい何を示しているか。


【皇の鍵は「アンク」である】

 

この皇の鍵、実は「千年錠(千年アンク)」である。

 

原作においては、シモンが持ち、シャーディの手に渡り、最後にアテムによって封印されたが、それの成れの果てが、おそらくこの「鍵」になるのだ。

そんなバカな。原作の設定がいまさら来るのか!

原作遊戯王を少し思い出してもらいたい。
シャーディは、千年アンクで遊戯の心を開け、闇遊戯の存在を暴いた。
同時に、シモンは、千年アンクで、封印されていた魔神エグゾディアの封印を解いた。


そもそも遊馬は「繁栄」や「生殖」といった言葉が似あうと思っていたし、「生命の喜び・輝き」そのものといってもいい人間だと感じていた。

右京先生は「遊馬を太陽」と称したが、文庫版タロットのタロット解説を見ると、だいたい太陽の項目に該当している。

 

 

ちなみに、皆さんは「アンク」に似たカードをきっとご存じだ。

 

そう、「死者蘇生」。

 

原作では遊戯の切り札となり何度も彼を救ったカードだが、1話で、遊馬がオボットとぶつかったときに、シリーズの目玉になるであろう、ガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレムというモンスターとともに、一瞬だけ死者蘇生が垣間見れている。

おそらくは父一馬から受け継がれたものなのだろう。

初期の遊馬デッキにはなんとしっかりと入っていて、しかも、希望皇ホープを呼ぶ切り札として使われている。
勿論、激突!デュエルカーニバルやTFSPでもしっかりと彼のデッキ中に存在している。
アニメ7話では死者蘇生を2枚入れているという話も見受けられるが、別にアニメの世界は原作基準じゃないからね、仕方ないね。

ちなみに、その切り札が「ダブル・アップ・チャンス」に変わっていったことに関しては、いずれ、やりたいと思う。


「鍵を持つ」遊馬の本質とは「生命」そのものの持つ力なのである。

 

ちなみに、この千年アンクの力は原作においては、「人の心を暴く」というもの。


シャーディが遊戯の心を読むのに使っていたが、これをゼアル風に変えるとどういう風になるのだろう……。

それはもう、皆さんお分かりの通りで、はい、「遊馬先生」爆誕です。

そら、そうもなるわ……(^^;


これは私の仮説だが、遊馬は鍵がないころは、いわゆる意気地なし、弱虫、等の言葉が似あう存在だった。
しかし、一馬にかっとビングと鍵を与えられた。

彼は、その鍵で何を開いたかというと……「デュエルで人の心を読めるよう」になりました。
というより、鍵の力でばんばん他人を暴くようになった。

それまでは多少なりとも、デュエルの腕や勝てないことに悔しがっていたり悩んでいたのだと思う。
しかし、鍵の力で他人の心をのぞき見できるようになってからは、おそらく、それが楽しくて仕方なくなった。
そして、何よりも、「勝敗」という些細なものが気にならなくなった。おそらく、これが大きい。

 

「デュエルをすればそいつの全てがわかる」

 

遊馬は高らかとそういいますが、これがまんざらでもないことがうかがえる。

 

実際に、真月の件でベクターに瀕死にまで追い込まれ、ダークゼアルとなったとき、彼はアストラルの精神世界に侵入し、アストラルを「悪」から解放している。(98話)

 

やっぱり、「人の心をのぞき込む」なんて、まるでシャーディーじゃないか。


要するに、デュエルとは自分の腕とは関係ない、おそらく、遊馬にとって「他人を知れる機会」そのものなのだ。
彼にとって、得た情報を処理するのはたやすい。それをおそらく感覚でやっているのが遊馬なのだ。

 

 


【アストラル世界にとっての皇の鍵】

この鍵、実は「アストラル世界」から、しかも、「アストラル(らしき人)の手」によって渡されるのである。
アストラル世界は高度なエネルギー世界。
死んだ人たちが、ひたすらランクアップを続けるための世界である。

少なくとも、遊馬が来るまではそうでした。
その頂点にある「皇」、象徴たる力、それこそ「生命」そのものである。


どういうことなのか。


ちなみに、この「皇の鍵」……見ようによっては「♀」と「♂」を合わせたような形になっている。

……要するに、そういうことか?


アストラル世界は死人が存在し、ひたすらランクアップを目指すものとして、存在する。
そこに、「性的な営み」は勿論ない。
おそらく、親子や家族、恋人等の「絆」なども、本当は存在していない。

ただ、関係だけ、そこに「在る」だけである。存在するのみの存在。
「守りたい」という願い、なければ、何も感じなくなっていく。
全ては形式化、形骸化しており、そこの存在意味もランクアップできなければ無意味なものとなっていく。


おそらくは「皇の鍵」とは、「封じられた欲求」、彼らが「手放した生命の輝き」そのものなのかもしれない。
アストラル世界の人々は封じられた自らの欲求を「皇の鍵」として奉り、天井に置いたのだ。

 

同時に、この鍵…は「悠久なる生命の回帰」の象徴だと見て取れる。

彼らは、ランクアップを目指しながら、生命に満ち足りた、自分自身の過去、すなわち、人間時代の自分たちを思い出していたのではないだろうか。


【アストラルの「生命」の話】

遊馬のシンボル…おそらく、人間の「男女」から生まれた子、アストラル世界の象徴である「皇の鍵」を持つにふさわしい存在。しかも、その存在はアストラル世界の存在が、悠久の時を経て、人間世界にたどり着いた存在。
アストラル世界の禁忌を犯しまくった存在である。


アストラル世界は、そもそも「人間の魂」がランクアップした世界。

そのランクアップした魂の総意から生まれたアストラル。

その総意から生まれたアストラルの半分が、今度は「人間の子供」としてオーバーレイして生まれてくる話。(これこそ、ランクダウン)

 

おそらくはエリファスと同義の存在であるから、アストラル自身もアストラル世界の総意とみて差し支えない。

 

そんなアストラルが今度は「生命の力を得た」自分(遊馬)と出会い、「父母」を介さなかった「生命」が今一度、生命の原点回帰に立ち返るという話。

 

文字通り、アストラルの役目とは、本来の使命とは別にこの「生命」を自ら追体験することだと思う。

彼が「仲間のために勝ちたい」と願ったときに生まれたのが「カオスナンバーズ」であるホープレイ。

後々、バリアン七皇たちに、さんざん苦しめられる「カオスナンバーズ」を実は一番最初に作り上げたのが、ほかならぬアストラルなのである。さすがラスボスw。

しかも、このホープレイは「ランクアップしない」、ホープと同格のナンバーズである。しかも、純正なのかそうではないのか、ランクアップに必要な魔法カードを使用しない。

更には後半、遊馬とともに、ヌメロンコードの力を借りて同じくカオスナンバーズを作り上げている(ヴィクトリーのことです)。

そこには、バリアン七皇と同等のカオス「勝ちたい」「信じたい」という自分の欲求が込められている。


生きることは「欲望」を持つこと。

とは、よくイクニ作品で語っていることだがそんな純粋な祈り、欲求が込められたのが実はアストラルなのである。

欲望とは彼の「使命」や「意思」に反して行動を起こすことです。

そのせいで、遊馬をNO.96から守ったり、カオスナンバーズを誕生させたりと、アストラルもすっかりカオスの虜になってしまいました。

そりゃ、アストラル世界もアストラルをカオス認定して追い出したくなってまうわ。

ただ、アストラルが「カオスを持つ」プロセスは、少なくともアストラル世界にとっても非常に有意義なことである、結果的に。

アストラルが仮にカオスが芽生えず使命だけを遂行していたなら、アストラル世界は緩やかな衰退を繰り返しいずれ滅んでいたことでしょう。
アストラル世界がカオスを受け入れることで進化すると思い、彼はカオスを受け入れた。大丈夫、すべての責任は自分が負う。アストラルの意思に間違いはない。


遊馬を仮に「生命の輝き」と称されるべき存在であれば、その「生命」の意義をアストラルが体現している…のである。


【アストラル世界の問題とは】

 

アストラル「私は孤独だった…だから彼のことがわかる」


アストラル世界に蔓延する問題とは「孤独」そのものなのではないか?


遊馬「誰でも心のなかじゃ、良い心と悪い心が戦ってるモンじゃねぇのかよ!
でも、そっから逃げ出さなきゃ、きっとどんな事だってやり直せる!誰とだって分かり合える!
一人一人の苦しみも見ないで!何も知らないで!本当のランクアップなんて、出来っこねぇ!!」


この「戦い」とは別に戦争せよ、というわけではない。
特にアストラル世界の人に関しては、アストラル・エリファスにすべて自分たちの生存権を預けているように描写がされている。
自分たちは決して戦わず、すべての決定権を預けている。

もしかしたら、自らほかの人とかかわりあうことをなくし、自分たちから何かしようと思うだけ、希望を願うだけの存在になり果ててしまったのではなかろうか。
そこまでいけば「生命の喜び」等を感じることができないほど疲弊していた。

「戦い」とは常にだれかと結び合うことで生まれる。
その結びつきで、人と人が何かの理屈で大規模なものとなったものを「戦争」というが、人は多かれ少なかれ、人との交わりの中で、生命の喜びを感じていく。
それはたまに、深い谷から戻れないほど傷つくこともある。

しかし、リスクを恐れていては、大切なものも得られないのである。

 

やはり、そのためにはやはり「皇」の存在が必要なのだろう。
自らが戦うためではなく、人に「戦わせる力」を持った人間が。

遊馬は、アストラルは、そんな「皇」に近づくことができたのだろうか。

 

アストラルは、遊馬がアストラル世界に認められたとき、エネルギーをアストラル世界からもらい、蘇生した。
その時の顔が、本当にやさしく、慈愛にあふれている、安心した顔をしていた。

やっと、アストラル世界の人と、触れ合うことができた、そんな顔をしているのは、私の気のせいだろうか。

 

 

 

 

 


ここまで書いて、さて、遊戯王ゼアルは「人間賛美」や「生命賛美」なのかと言ったらそうではない。

というか、それだけなら私の考察は進んでいない(^^;

そして、真に生命賛美なら、あんなにラストで人は殺さない。ホープも殺意を持たない(キリッ)。そもそもカードゲームでどれだけモンスターという命がさらされておるんじゃ我!

ということです。

個人も「生命賛美」だけを書いて、逃げようとは思わない。が、ここまではどうも「皇の鍵」の考察から少しずつ外れてきているので、またの機会に「ゼアルのテーマ」として書きたいと思います。

そんなに難しい内容ではないですので、多分補足的なことだと思います。
それにはどうしても九十九遊馬のプロセスを経ないと書けませんで続きは彼の話を挟んでからにしたいと思っております。

 

 

追記:ここまで書いて重要なことを書き忘れた。

「鍵」といえば、「アレ」だよ。あれを書かないと100点もらえない。