遊戯王ゼアルの考察と謎

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【人物考察】アストラル

アストラルは作中どういうキャラであったかは皆さんご存じかと思います。

遊戯王恒例でもある「もう一人の主人公」として、彼がどう道を歩もうとしたのか、描写が少ない中でそれを語っていきたいと思います。

描写が少ないなど、表遊戯よりは出番めっちゃあるし、何ならほとんど毎回セリフがあるからね、この方……。


キーワードは「可能性」です。

皇の鍵を「可能性の鍵」として見ている遊馬と同じテーマにはなりますが、彼の目指す「可能性」と少し違うかなと感じます。

 


【アストラル世界は詰んでいる】


そもそも、アストラル世界は詰んでいます。この話を最初にしておかないと、理解ができません。

仮に、アストラルがヌメロン・コードを使い、バリアン世界を滅亡させたとしても、アストラル世界は遠からず滅びます。

アストラル世界の人々はカオスが欠乏し、選民思想が進んでいくことでしょう。

一番の問題は、バリアン世界ではなく、アストラル世界そのもの、つまり「内部の人間」の問題であるからです。

なんというディストピア……。

ただ、この世界のエリファスという方も、頭が固く、アストラルに「バリアン世界を滅ぼせ」としかいいません。

アストラル世界の人々もランクアップすれば、世界は救われるんじゃないか……。とも思っています。

おそらくは、それだけが希望だったのでしょう。

 

その状況を一早く察していたのが、九十九一馬でした。

アストラル世界を救うには、

1)ヌメロンコードを使用する者が正しく使う

2)アストラル世界の人間が変わる

ことが必須条件でした。(ついでに、九十九遊馬の成長を促したりバリアン七皇も救おうとしていた形跡もありだが)。

要するに、アストラル世界の「内側外側両方からの荒治療」をもくろんでいたのですね。


アストラルは人間の世界へ行き、人間の体をのっとって、使命を遂行しようとしていた。

そのプログラムを一馬は書き換え、自分の息子である、九十九遊馬へそのリンク先を変えたのです。


九十九一馬は、遊馬がアストラルと同一人物であることを知って、彼に近づけたのだろうか。

 


【他愛の折り紙付きの強さ】


もう一つ、彼の表すキーワードとして「他愛」というものがあります。

遊馬はとても「他愛の強い存在」であるのですが、実は、それ以上にアストラルは強い。

そもそも、「生まれた理由そのもの」が「みんなのため」というものなのですから当然です。

遊馬と違うところは、遊馬が「守るべきもの」を限定しないのに対し、アストラルは守るべきものを決めればどこまでもそのっ人に従順になれるという点。

遊馬を守るべきものとして認識し、自己犠牲するわするわ、何回ヒロインやらされてるの、って感じにもなる。

そういう意味では、カイトに近いと思います。

特に、111話。バリアン世界を滅ぼさなければいけないという使命がわかって、これからどうなる! 

というところで、まさかの自爆……。

自分の使命を放棄してでも、自分の親友である遊馬にすべてを託して自ら犠牲となる。何、このヒロイン…。

ただ、遊戯王的には「自己犠牲の回数が多ければ、その人の愛情が強い」とイコールになりがちなので、何度も身代わり未遂をするアストラルは、おそらくは、遊戯王史上でも、最も愛情の深いお方のはず。


【人間世界のごみ拾い?】

数千年前に、ドン・サウザンドと戦った時の衝撃で、アストラルは過去の遊馬と離れ離れになり、その間、数千年間、ブランクがあります。

理由としては、おそらくは、「分かれた半身」(過去の遊馬)のほうが、「カオスを含んだ存在」だったから、というのが一番しっくりくると思います。(そうじゃなきゃ赤く輝かんでしょ)

上でさんざん「他愛が強いキャラ」とは書いたのですが、性質上、「自己愛」に関しては、てんで弱い方のようで、数千年間、50枚のカードが散在したのにも目をくれず、自分の半身を放置した模様……。


遊馬もそうだけど、お・ま・え・も・か!!


とかく、遊戯王ゼアルは「他愛」が強いキャラが多い気がしますが、だいたい遊馬とアストラルのせいだと思います。


一馬は、人間世界で「捨てた(放置した)半身」を探させたのですね。

アストラルのストーリーは、最終話でひと昔前の言い方で恐縮ですが、「自分探し」に収まったのです。


が、私はナンバーズを含めてこれをゼアルの世界観を含めて「アストラルのゴミ拾い」と言っています。

遊馬をゴミ扱いしているわけではないのであしからずご了承ください。(してたらこんな考察書けませんw)


「この扉を開くものは新たなる力を得る その代償として一番大切なものを失う」(皇の扉)

「人は何かを得るために 何かを捨てる」(フェイカー)

そして、九十九遊馬から連想される「つくもがみ」という言葉から、何かしら物語から「捨てる」ことを強要されているようにもとれる。

実際、捨てたゴミがアストラル世界を消滅するきっかけすらなるから、「ゴミ」や「捨てる」ことを無視するとろくでもなくない。

ならば、この言葉で対等してみてはいかがか。

「捨てる神あれば拾う神あり」と。

アストラルは「拾う神」なのか。

アストラルもまた、遊馬と同様に、「自分自身を大切にできなかった」のであろうと私は思っている。

実際にエリファスは「アストラルは復活するのだ。バリアン世界を消滅させるという使命に従順なアストラルとして」と言っている。

何、それ、要するにただの兵器ってことじゃん! 

自分が何もしないで、アストラルやエリファスたちに自分たちの役割を押し付けていたわけです。

そりゃね、アストラルは死んでもアストラル世界に戻されて、再び使命を遂行しなければいけないのですからね。

本当、泣きたくなるよね(^^;

それを知ってか知らずか、遊馬がアストラル世界の人々を変え、アストラル世界の人々から助けられたとき、アストラルの笑顔も優しいものに変わった。初めて、アストラル世界の人々と心が通ったのだろうか。

彼は今度こそ、真の意味で「救世主」となれたのだろう。武器や兵器ではなく、命と希望をつなぐ救世主に。


【アストラルが得るべき心の在り方】

さて、少し話は前にさかのぼる。

アストラルは心の在り方を変えなければいけなかった。


……これは、原作遊戯王を見ていて思った言葉。

高橋先生は原作遊戯王で「遊戯たちを光」としました。


では、アストラルと遊馬の関係も、やはり、「光」だったのではないかと思います。

その「光」とは何かというと。「良い心」(ゼアル的には『善い心』といったほうがよいか)

ズバリ、正義と善。この二つは明確な違いがある。

正義は「社会」に基づく正しさ、「集団」から決められた「正しさ」であり、善とは「経験や感じ方」等「個人」から生まれてくる「良き考え」のことです。

正義とは「前例があり、他者の承認が不要なもの」、善とは「前例がない場合もあり、他者の承認が必要なもの」と定義している。

要するに、善というのは、個人が「これがいいことだ」と思っただけでは、「善」として承認されず、相手がそれに同意した場合、それが「善」たりえるものだ。と個人的には思っている。要するに、承認が必要なもの。

それをよく表したのが、真月零である。

彼に関しては、こちらで書く必要はないと思うが、やることがすべて裏目に出ても、遊馬たちはそれを承認してしまっている。

彼の「良かれと思って」の行動は本来「独善的」と言われるほどのものだが、遊馬が承認している以上は、それは「独善」ではなく「善」となりうるのである。


アストラルに足りないものは「善」、個人の経験等によって導くべき「正しさ」である。

逆に遊馬が背負ってしまったのは、正義的……要するに、「集団」や「社会」に裏付けされた「正しさ」でした(これが最終的に彼を苦しめることになるのですがその話は前にやったので省略)。


遊戯王はそれらの「光」…すなわち「善と正義」の融合こそ、物語の解決のカギとなるのです。


アストラルは、遊馬にとりつかず、ナンバーズも飛び散らなかったら、彼はほかのだれかをのっとって、任務を遂行するつもりだったらしい。

しかし、一馬はアストラルを遊馬に取りつかせた。

「彼が自ら考え、答えを導き出す」必要があった。

そのためには、彼自身の経験や感性を身につけなくてはいけない。

おそらく、感情豊かで優しく、また、自分自身の分身、「自分」と合わせるために、遊馬を選んだのだと思う。


個人的には、アストラルがほかの人間にとりついたときにおこる障害はおそらく、

「遊馬自身のデュエルがうまくならないのでアニメの題材的に死ぬ」

くらいだと思います。いくら考えても、それしか考えられなかったのですが…。

遊馬のことだから、シャークのように、ズケズケと心の中に入り、アストラルの心を開花させていきそうだと思うのだが、もし、このストーリーで何か障害があるとすれば、そこを教えてほしいと思います。


【アストラルの旅路は「可能性の旅路」である】

NO.96という存在がいる。

彼は自分がアストラルの分身だとして何度もアストラルにちょっかいをかけてくる。

結果的に彼は、アストラルに負けるどころか、最終的には人形として利用されるという悲惨な末路をたどる。

彼が孤独で、独善、人を利用し、また、自分のタクティクスにおぼれて、鍛錬することを忘れる。

そこに導かれるのは「破滅の可能性」である。

アストラルも、NO.96と対峙するたびに、何度も顔をしかめ、考え込む。

「もしかしたら、一歩間違ったらNO.96のようになったかもしれない」という心が彼を占めていくのであろう。

実際、NO.96との3度目の再会は、悲鳴の迷宮。

その時は、おりしも、彼自身がベクターによって「悪」に目覚め、暴走し、自分の精神世界を崩壊させ、こともあろうことか、最も信頼している遊馬まで自分の狂気によって破滅させようとした時の直後だった。

「悪」の危険性を身に染みて感じた彼だったが、それでも、NO.96は「悪」の必要性を高らかに謳う。

おそらく、少し前であれば、その存在に狂喜乱舞し、受け入れていたかもしれない。

その危機を避けられたのは、遊馬の助力もあったが、何よりも、ベクターがあらかじめトラップをひっかけてくれたおかげで、NO.96により誘惑を断ち切ることができている(だいたいベクターさんのおかげ)。

NO.96とは物分かりせず、結局、NO.96は自らを暴走させて破滅した。


同時に、彼のそばにいたのは、「形も心も違う」もう一人の自分だった。

アストラルが遊馬を「もう一人の自分」だと認識し始めるのは、おそらく、50枚のカードがそろったZEXALⅡ以降のことだとは思う。

デュエルの腕は弱く、意地っ張りで、言うことを聞かない彼だったが、自分にないものを持つ彼にどんどんと惹かれていく。

彼は使命もなければ、自由に暮らし、家族がいて、仲間がいる。何より、自分の「武器」たるデュエルを心から愛し、楽しむ。

そんな遊馬もまた、アストラルの「可能性」だった。

使命もなく、自分が愛した家族や仲間とともに過ごす。もしかしたら、ありえたかもしれない自分自身。

実際、彼は最終話にて、遊馬を「別れたもう一人の自分」だと認識している。

もしかしたら、自分の命すら捧げることなく、遊馬になることができたら…と心の底では思っていたのではないでしょうか。


アストラルにはいつも「可能性」が付きまとう。

それは確かに遊馬の「可能性」もあるかもしれない。自分の本来歩むべき道であった「可能性」かもしれない。そして、これからの未来への「可能性」のことかもしれない。

そんな可能性に触れながら、彼は次なる可能性を見つけてかっとビングしていくのだ。


ちなみに、その可能性、別の言い方をすれば「希望」という言葉に置き換えられるのは……、ここだけの話にしておこう。