遊戯王ゼアルの考察と謎

ネタバレにご注意ください。OCGには無関係のファンサイトです

「死」に「生命」で抗う ゼアルのテーマとは

「死」に「生命」で抗う


ゼアルのテーマ的なものにちょっとばかり触れていきたいと思います。

2期に関しては、完璧に「死」に「生命」で対抗するという話になってますね。

そこまで書くと「生きるって素晴らしい」みたいな、生命賛美になっちゃうところ、ゼアルはそれとなくカバーしているので「ただの生命賛美」には陥りません。

 

おそらく、「死」にあらがうというのは多分、ゼアルが「4」作目だからです。4です、死です。

……なんで、テーマ掘り下げていくとダジャレになるんでしょうかね、私のせいでしょうか…(ーー;


【ドン・サウザンドは死のモチーフ】

ゼアルのラスボスはドン・サウザンドです。このキャラクター、いかにも「死」がモチーフになっていることは皆さんお気づきのハズ。
ゼアルはこの「死」と戦っていくという物語に2期目からなっていく。

私としてはどうしても、ドンさんが閻魔大王にしか見えなかったんですね。

あの錫を以て、閻魔帳をパラパラ見ているような…。ドン・サウザンドの持つ「リライティング」能力もああ、閻魔さまじゃんけ。と思ってました。

でも、このキャラクターの元ネタは、おそらくこれではないかな?と思う。

バリアン七皇が「北斗七星」の名前にちなんだものだというのをご存じでしょうか。

 

ニコニコ大百科より引用

バリアン七皇の名前の元ネタが北斗七星と言われている(ドゥーベ→ドルベ、メラク→ギラグ、フェグダ→ベクター、メグレズ→メラグ、アリオト→アリト、ミザール→ミザエル、ベネトナシュ→ナッシュ)。

 

知らなかった……

 

北斗七星の一番下の星に「破軍星」というものがあります。この星をつかさどっているのは、七皇ではナッシュです。

 

実は、道教に、北斗七星をまとめる「北斗星君」という人物がいます。

 

北斗七星の神格化である北斗星君は死を司る白い服を着た醜い顔の厳格な老人であるとされる。

北斗星君は全ての人間の行いを調べて地獄での行き先を決定する、日本における閻魔大王のような役割を持つという。

また、人の寿命を記した巻物を持っており、そこに書かれた数字を書き換えることで寿命を伸ばすこともできるとされる。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8C%97%E6%96%97%E4%B8%83%E6%98%9F
ニコニコ大百科 引用終わり

 

簡単に言えば、日本版閻魔大王、ということになるでしょうか。
私的にはとてもすっきりしました。だから、彼の手下は北斗七星、バリアン七皇というわけなんです。

彼は「人の寿命を記した巻物」で、人間の「数字」を操るのです。多分、それで七皇もやられたのです。
ここが元ネタなら、やはり、ナンバーズの「数字」はズバリ「寿命」なのでしょう。

 

 【死にあらがう】

では、どう「死」と戦うのか。

それは、勿論「生命の力」を以て戦うのです。


物語はこうなのでしょう。

 

アストラルはドン・サウザンドにかつて戦いかろうじて勝利しましたが、アストラルは半分に分かれてしまった。

何故ドン・サウザンドを倒せなかったのか。

それはアストラル自体が「エネルギー体」だからにほかなりません。彼に「生命」はないのです。

その無理を悟った半身アストラルは、人間世界にたどり着き、父母を持ち、子供となることで、生命の力と絆を得て、再びドン・サウザンドと戦う。

 

これが、遊馬なんです。


うん、よくできたストーリーですね。

個人的に、「ああ、ゼアルってアストラルの物語なんだ」ということを再確認できました。

勿論、遊馬の活躍もあったのですが、その前の「前提」がもう、アストラルありきだったのですよ。

そりゃ、1期で、アストラルが最初に主人公になるわけだ。

原作分かる方には、アストラルは闇遊戯と見てる方も多かったのではなかったのでしょうか。


では、何故生命の力なのか。

というのは「皇の鍵」の考察を読んでいただきたいのですが……。

 

「生命アンク」=死者蘇生=皇の鍵=千年錠 と私はとらえています。

 

遊馬のデッキにちゃっかり「死者蘇生」というカードが入っているのですよ。

しかも1話でガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレムというメインモンスターの間に、こっそり映ってます。

これをアンコール放送後に見て「また死者蘇生が来る、これはフラグ!」と思ってましたが、まさか意味があったとは…。

 

要するに、一度遊馬は死んでいて、人間世界で新たな生命として生まれ変わっている。これを本編中、ランクダウンと言っています。

闇遊戯の使う死者蘇生はどちらかというと自己主張的なものだと感じましたが、皆さまはどうお考えでしょう。

これ、おそらく、意図的に入れたんでしょうね。後半ほとんど使わなくなったけど。


何故かって、遊馬はもう十分に「生命の力」を持っているからです。

そもそも「生命の力」を持つ皇の鍵が、遊馬に宿ることによってその力が増幅されている。

なんといえばいいのか。遊馬が皇の鍵を持っていれば、彼に安心してすべて任せられる。みたいな。自他ともにそうなのでしょうね。

彼はそれだけでは足らないと考えていて、絆の力、つながりを以て、「死」と戦おうとしている。

理由はアストラル世界が「孤独」ゆえに弱まってしまったからでしょう。彼自身が孤独に陥らないために、絆に頼ろうとした。

後半「死者蘇生」の代わりに「ダブルアップチャンス」が幅をきかせます。

 

アストラルは、そもそも「生命」のことに関しては無知でしたし、遊馬に追従することで、「生命」や「生きる」ことの意味を追体験する。

そして、遊馬自身に「君の持っている使命」を思い出させるという使命がある。遊馬を覚醒させなければいけなかった。

勿論、遊馬はそれを自分のものとは知らずに遂行しようとする。

アストラルの「記憶がない」は遊馬にとっての「記憶がない」はイコールなんですよ。

だから、記憶探しをするたびに、二人はもともとの形、要するに「ゼアル」に戻るわけです。


遊戯王のゼアルのテーマとは】

ここまで書いて、ゼアルは「生命」と「戦い」を結び付けていて、それが単なる「生命賛美」ではないということなんですね。

生きることは戦うこと! ……う~ん、それも間違っていません。

 

遊馬「誰でも心のなかじゃ、良い心と悪い心が戦ってるモンじゃねぇのかよ!
でも、そっから逃げ出さなきゃ、きっとどんな事だってやり直せる!誰とだって分かり合える!
一人一人の苦しみも見ないで!何も知らないで!本当のランクアップなんて、出来っこねぇ!!」

 

そこに、ランクアップやカオス…等の問題が生じてくる。

遊馬のいう「戦い」とは「他者との結びつき」なんですよ。作中はそう言っていませんので、私が思う答えなのですが…。

デュエルを「武器」にしていたアストラル、そして、「つながり」として見ていた遊馬。その折衷案こそ、遊馬が見つけた「戦い」の意義。それすなわち「他者との結びつき」なんです。

彼曰く、戦う相手は自分の鏡なんだから、他人を通して自分を知ることができる、イコール、誰かと関わりをもてば、必ず問題は解決することができる、ということなんですよね。

 

すべてひっくるめると、遊戯王ゼアルという作品は

 

生命の輝きは戦いによって洗練される

 

このゼアルという作品は「戦い」、「結びつき」によっての「魂の洗練」を延々書いたお話なんですよ。


ここが気持ち悪いと思う人はそもそもゼアルが合ってないのかもしれません。

宗教色? オカルト? 原作なんかそんなもんだ。
私はオカルトも精神世界も神話も大好きなので何も問題ない(キッパリ)。

 

 


要するにチャレンジ精神を忘れるな、戦いを恐れるな、誰かとの結びつきを恐れるな。そこから必ず問題が解決する。

もっと短くまとめると、


かっとビング!


……初志貫徹という素晴らしい結果に(^^;

 

テーマがぶれていないから、その分、主人公を動かすのも楽だったのかな。と思うんですが、吉田さんのインタビュー聞くと、結構大変だったそうですね。


確かに最初、遊馬のかっとビングは「チャレンジ」という言葉の意味だけだったんですね。

でも、そこから、遊馬の実体験に基づいて、いろいろ発展させているわけです。

 

かっとビング!
それは勇気を持って一歩踏み出すこと!

かっとビング!
それはどんなピンチでも決して諦めないこと!

かっとビング!
それはあらゆる困難にチャレンジすること!


公式が最初にネタバレしちゃってるからなぁ(^^;

遊馬はきちんとチャレンジの中に、他人とのつながりを築いて、そこから、自分の確かなものを作っていったのです。

 

 

 

余談ですがこの話は結構後になってやろうと思ってました。

まぁいいです、リンクス実装記念ってことで。

遊馬は「何者でもない」かっとビングの教え

【かっとビングとは「自分定めない」精神である】


一度タイトルで「勇者の凱旋」というタイトルが出ました。

やっぱり、遊馬は勇者だったか。

ドラゴンクエストの生みの親、堀井雄二さん曰く、勇者とは「あきらめない人」のことを言うらしい。

うん、一言一句間違っていないですね! 素晴らしい!


しかしですね、皆さん、「あきらめる」という言葉を誤解している。

あきらめることは、決して悪い言葉ではないのです。

ただ、ドラクエをはじめとして、少年たちの間で、「あきらめない」が出回ってしまったため、「あきらめる」は非常に肩身がせまい。

「あきらめる」とは「明らかに極める」が語源となっています。


「諦観」という言葉がありますが、これは「物事について見定めること」を意味します。

 

要するに、何かに対して、自分が「これだ」と認識すること。

こと、ゼアルにおいては、「自分自身を見定める」ことを意味します。

しかし、前提として、遊馬においてはこれらがないわけです。


皆さんは、大人になるにつれ、そういう意味で「物事の見定め」たる「あきらめ」を人間は成長の過程で学んできたはずです。

そして、それらのほうが処世術においても、有意義であることをおそらくはご存じだ。

 

勿論、敵役は「もうあきらめちまえよ…」と何度も煽るのですが、それでも頑なに「あきらめない」を誇示します。

それは彼のデュエルにも、考えも同じでホープを出し続けたり、負け続けデュエルをしたりと、根本的には同じ。

これをよく世間では「バカの一つ覚え」と言いますが、それでも勝つのですよ。

でも、それこそが実はゼアルにおいては大切なことだと教えているわけです。

 

アストラルは七皇について、自分たちの過去を知らせましたが、遊馬にはそのことを教えませんでした。

おそらく、七皇に限っていえば、ドン・サウザンドによってゆがめられた人生を送ってしまったという理由からでしょう。


遊馬に自分の過去を諭すことはおそらく、「自分を見定める」……「あきらめる」行為、いわば「かっとビング」そのものの否定を意味します。

 

前にも話しましたが、アストラルとかっとビングがほぼ自分成分の彼は、おそらく、「自分という鎖」にとらわれることだけは、よしとしない。

アストラルが「鎖」になっていることには、全くもって異論はないのに、いざ「自分が鎖」になると途端に動けなくなってしまうのでしょう。

唯一、「自分を制御」できる(かもしれない)存在が実は「運命の扉」だったのですが、それも最後の最後で壊していきました。

 

アストラルが必死になって遊馬と「自分探し」(ナンバーズ集め)をして自分の可能性について真剣に悩んでいる最中、相棒の遊馬は、そんな自分探しなど論外なところで好き放題暴れているわけです。

まるで、自分の悩みなど「とるにたりない小さなこと」のように。


アストラルにとっては大迷惑かもしれませんが、そんな二人の関係がほのぼのとしていて私は好きなのではありますが(^^;

 

天馬、今ここに解き放たれ、縦横無尽に未来へ走る。

これが俺の、天地開闢! 俺の未来!


未来皇ホープを出した時も「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」ですからね。

この子、どれだけ、自分に興味ないんだよ……と半ばあきれてしまいました。

 

 


【思春期前の子供に「あきらめない」ことを教える理由】

遊馬は13歳という、今ではSEVENSの遊我君が出てきたのですが、それまで最年少主人公でした。

13歳と言えば、思春期入りかけ、「本当の自分」とは何か、「自分探し」や、将来に関して興味深々になっていく年頃です。

そんな時期に「自分を定めない」精神を持った子供が文字通り縦横無尽に走り回るわけです。

要するに思春期なのに、中身はまだ純粋すぎるガキという。

そりゃ、色々なことに悩み苦しむシャークさんも、遊馬には「イラっと」するかもしれません。

 

前作の遊星は18歳。遊戯も十代も少なくとも元服(15歳)を超えた年齢でしたから。

皆、10代の「思春期」というものを経て、大人になっている年頃の子なんですね。

もう、世間からすれば大人と言われてもいい年齢。

しかし、彼は13。いやいや「かっとビング」精神持ちだったら、年齢下げなくてもいいじゃん。と思っていました。

 

「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」


結局、遊馬はラストのラストまで「遊馬のまま」でした。

確かにデュエルチャンピオンという肩書もあるのですが、それもしっかりと形骸化しており、後々それほど語られることがなくなります。

自分というものは結局「自分自身は何者でもない」ということの意義だと私は思っています。

結果的に、誰が自分をどう言おうと、自分が「これだ」と決めない限り、自分自身は「何者ではない」のである。

よく言う「自分の可能性を閉ざすな」「お前はまだ何者でもない」ことの意味である。


安易に自分自身を定めて、可能性を閉ざすな、挑戦しろ、自分自身の限界に挑め


そういうことなのである。

これを「自分自身に悩む」年頃の前にきっちりと説教しておく必要があった。


「君は将来何になりたい?」と言われて、決まっている人はいいだろう。

「本当になりたいか?」そう問い続けるのもよいだろう。

「決まっていない」なら堂々とこれからどんどん可能性を模索していけばいい。

そして、それは全く悪いことではないことを教えている。

 

だから、遊馬は13歳。

しかも、彼にはかつて5D'sにあったような「将来の描写」はない。(漫画版にはあるけどねw)

何気ない日常を延々と過ごしながら、ちょっとした「鼓動」に気づいて、危険を顧みず飛び込んでいく。

目の前への強く踏み出す一歩、そして、その積み重ねが未来につながる。


これは、progressという歌詞からの引用


“ぼくが歩いてきた 日々と道のりを ほんとは≪ジブン≫というらしい”

 

自分が何者か、なんて実は小さいことなのかもしれません。

 

 

 

 

【遊馬はシャーディなのか】

ここからは余談

 

ここまで書いて、遊馬って実はシャーディなんじゃないか。なんて思ったりもする。

シャーディは「鍵」を使いました。千年アンクの持ち主ですね。遊馬も「皇の鍵」をもつ。そう思うのは、ダークオブディメイションにおいて、監督が一緒だからなんだよね(^^;

 

彼は、次元を超えることで、浮世の悩みを浄化しようとしていた。

そこに、藍神たちが絡んでくるわけで。

シャーディはいうなれば、「教祖」であり、原作でも、ペガサスに千年眼を与え、デュエルモンスターズを作り出したそもそもの原因。(原作ではM&Wだけど)

何より、ダークオブディメイションにおいては「次元を超える」存在として描かれている。

 

遊馬もまた長い間、アストラルの半身として、ふらふらと何千年も放浪したキャラとして描かれているのですが、その間、やっぱり、「次元」を行き来してたのかな、最後の終の住みかとして人間世界を選んだんじゃないかな、なんて思えるえわけです。「旅」なんですよ。吉田松陰みたいじゃないですか。ただ、旅の結果はあまりよろしくなかったようで。

彼に「自分」がないのは、そうした次元を移動することによっての「悟り」ともとれるんですよ。多分、次元を移動することでいろいろなものを数千年見てきたのでしょう。(いや、宗教じゃないですよw)

「悟り」というのはいわば「あきらめ」ですから、この現世でも、「心が死なない」ように、父は魂に「あきらめない心」かっとビングを遊馬に教え込んだ、ととれる。おかしい言い方ですが「悟り」と「あきらめない心」という一見矛盾したものを遊馬は持ってるんです。

 

シャーディは結局、次元を移動して、「あきらめる」ことを学んでしまった。「苦しみ戦争も何もない」世界を捨てて違う次元を行こうとする。これって

「人の苦しみも見ないで、知らないで、本当のランクアップなんてできっこねぇ」

につながる。結果的に、シャーディは何もできなかった。藍神も、最終的には遊戯たちを選んだ。シャーディが「死後救済」(次元移動による解決)を唱えるのだとしたら、遊馬は「現世救済」をひたすら説くのである。それが「可能性」という言葉で現れている。

だから、遊馬には「希望」(現実的な解決手段)を与えられた。ホープはひどい言い方ですが、殴るためにいるんですよ。「うぬぼれるなぁ」ってね。熱血教師かよ。だから、最後、遊馬も殴られる必要があったんです。

よく遊馬のベクターを救おうとした姿が「菩薩」だと言われるのだけど、そういう意味では「現世」の悩みに答えをもたらす「菩薩」というのも、答えとしてはあっているんですよね。

 

そう考えると、シャーディはかき回しただけかき回して何もできなかったという結論になるのですよね。奇怪で、一時はボバサというキャラになり遊戯たちを導き、最後は「自分の正義」のために誰かを利用する。(これって、ベクターっぽいなぁ(^^; )

遊馬が仮にそうなってしまった場合、遊馬はラスボスとして倒される運命にあったかもしれません。

 

とはいえ、個人が考えるのは、こいつは「瀬人」には似ているけど、シャーディじゃないんだよな。シャーディぽいのは、アレなんです。「皇の扉」。

遊馬には(遊星にはないけど)お決まりの「二面性ぽい」キャラクターがいないのです。(アストラルやベクターはまた別の話)。唯一、二面性を持つ遊馬の身内って、1人だけ「皇の扉」なんですよ。

だから、私は、皇の扉を「過去遊馬」、あるいは「あきらめ遊馬」とみているわけです。よく「運命にあらがえ」なんて言葉がありますが、運命の扉はいつでも「あきらめ(=悟り)を待ち望んでいる」存在だととらえると、「一生懸命に頑張る」ことを全否定、運命に従え、世の中に従順しろ、という扉の声が聞こえてきそうなわけですよ。遊馬からしてみれば、「運命」が勝つか、「あきらめない心」が勝つか、の追いかけっこみたいなものでした。アストラルはそのおいかけっこに終止符を打ったのでしょうか。「運命と向き合え」の意味なのでしょうか。

シャークは運命と向き合った。遊馬はうまく運命と向き合えたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遊馬は「哀しみ」を持った主人公

【悲しみを受け入れろ、主人公の苦難】

原作遊戯王の表遊戯は怒りの体現ができませんでした。

怒りを全て闇遊戯に背負ってもらっていました。

この「怒り」に自分自身が気づくことにより、闇遊戯を受け入れ成長していく。


遊戯王の主人公たちはそれぞれ「喜怒哀楽」を1つずつ体現させていると思っていた。

少なくとも、表遊戯と闇遊戯の「それ」は勿論「怒り」である。

遊戯は「怒り」、十代は「楽しさ」、遊星が「喜び」を表しているのなら、5D’sが終わった段階で、次の主人公は勿論「哀しみ」を持った主人公が来る、とシリーズが続きながら考えていたのだが……

はて、遊戯王で哀しみを描くのだろうか? どう主人公に哀しみを持たせるのか? と思ってはいました。

最初は、遊馬って絶対泣かないキャラだと思ってました。

 

いや、「喜怒哀楽説」も終わり…と思ったら、実は後半から雲行きが怪しくなっていく。

 

……案の定来たよ、これ。


意図的に遊馬については「哀しみ」を特に強調して描いている。

勿論、元気いっぱい、天真爛漫さが強みな彼であるのだが、その反面、暗いものは確かにある。

ともかく、遊馬は泣く。

おそらく、本編でも、表遊戯以上に涙を流す描写が圧倒的に多い。

……なんでこうなった。


やっぱり、主人公喜怒哀楽説は存在したのだな!(違う)

一つアニメの制作事情を考慮すると、それぐらいメリハリつけてないと、主人公ってかぶりやすいですからね…考えてるな。

ちなみに、「喜怒哀楽」すべての感情を一緒くたにしたのが、ARC-Vというね(^^;

遊矢=怒り(遊戯)、ユーリ=楽しさ(十代)、ユーゴ=喜び(遊星)、ユート=哀しみ(遊馬)ととらえると、ちゃんと合ってますね!

若干、十代と遊星が不安だけど…w もしかしたら、逆かなと思うけど、そこは皆さまのご判断にお任せします。

遊矢が再び巡り巡って「怒り」というものに支配され、コントロールがきかなくなるのだけど、これって、要するに原作遊戯王に「原点回帰」してるんですね。

VRAINS以降は「感情シリーズ」ないので心配ないです。


確かに遊馬は「悲しみ」というコントロールが苦手であった。

これは、遊戯の「怒り」のコントロールが苦手なことと同じである。


最初遊馬の圧倒的な明るさに騙されがちだが、23話でアストラルは彼のことをカイトの会話の中でこう称している。


「私は君に魅せられている。遊馬と同じものを持っている君にね。

 そうだ。私は遊馬に乗り移ろうとした。

 だから、彼の心を感じることができる。

 遊馬の心の奥にあるのは、両親を失った悲しみ……

 そして、悲しみの中で両親の教えを信じて生きていこうと、あがきもがいている」


アストラルがこの時「悲しみ」という本質を遊馬の中から見出している。

さすがアストラルやな、とは思うのだが、このセリフ、よく聞けば結構フラグじゃないか。等と思ってしまう私がいた。

そう思うに至った経緯は勿論、19話で遊馬が話した父と母の話である。

そもそも、この「悲しみ」そのものの感情に、遊馬自身が気づいていない、ことが問題なのだ。

 

 


【悲しみを理解せよ】


では、どうして遊馬は悲しみに気づかないのか。

おそらくは父と母がいなくなったことが原因だった。

しかし、彼には父母がいなくとも、仲間も、姉も、祖母もいて、不自由なく生活できている。

そして、父と母からかっとビング精神を受け継いでいる。

その時に「俺って恵まれてるじゃん」と勘違いして、父母を失った悲しみを心の中に抑えてしまった。

本当はもっと甘えたい、もっと教えてもらいたい。

その心を置き去りにし、彼は心の中に封印してしまった。

彼はカウンセリングの天才だとか、遊馬先生だとか言われ、その「人の心の理解」できる早さは確かに尋常ではないのだが、裏を返せば、「自分の心を知ってもらいたい」という、遊馬の慟哭にも似ている。

そして、自分の心を知らずに叫んでいるようでもある。

 

「あいつらはみんな、あんたがいなくてさみしかったんだよ!不安で、泣きたくて、一生懸命だったんだよ!」

 

そう叫ぶ彼の心は、まるで自分の心を語っているかのようだ。


良くも悪くも、この出来事が遊馬の原点である。

もっと真剣にその時自分の感情を理解していれば、ゼアルという作品ももう少し変わっていたかもしれない。


【悲しみの共有】

個人的に、アストラルと闇遊戯は何が違うかというと、闇遊戯が表遊戯の怒りを「共有」しているのに対し、アストラルは理解だけはしているけど、「共有」はしていないのである。

では、相棒のアストラルでもできなかったこの「悲しみの共有」という問題の解決策は誰にあったかというと、おそらく皆さんお気づきなのではないだろうか。

スリー(Ⅲ)、こと、ミハエルである。


Ⅲは後半こそ遊馬の理解者になったが、最初、「似たような境遇」で明るすぎる彼を理解できなかった。


Ⅲは遊馬とのデュエルの果て、「心の悲しみを共有」することで親友になれた。

思えば、遊馬が涙を見せ始めるのは、実はⅢ戦あたりからだった。


Ⅲのおかげで遊馬は、自分の「悲しみ」を表にすることができるようになった。

Ⅲは「一緒に涙を流していい相手」である。


「苦しい時は、一緒に、思い切り泣こう」

それができるのがⅢなのである。


そして、遊馬にとっては最大の試練であったアストラルとの別れの後、真っ先にその「悲しみの共有」すべきと現れたのがⅢだった。

自分の心を露わにできる相手が傍にいてくれることでどれだけ安心できたのか。


それは蝉丸とのデュエルで如実に現れているので、今一度見ていただくことをおススメする。

 


【悲しみを受け入れよ】

「共有」できたらはい、それで終わり。んじゃ何もならんのだよ。

それじゃ、闇遊戯が好き放題やることになる。あくまで「共有」はきっかけに過ぎない。


ここで、少し私の整理のために、原作における遊戯がどう闇遊戯(怒り)を乗り越えたのかお話しさせてもらう。

遊戯は優しい性格のため、物理的にも精神的に他者への「対抗手段」がない。

例えば、同じ少年漫画でいえば、この「物理的対抗手段」は暴力だとか能力だとか言われるものである。

これを「怒り」という感情をきっかけに闇遊戯が現れ、彼が罰ゲームをして裁くのが初代までの流れである。

闇遊戯の存在は遊戯にとって嬉しかったが、この闇遊戯は、遊戯にとっても相手を闇の底に叩き込む、自分の命を勝手に代償にする等、「やりすぎ」と言われる面が節々にあった。

これは同時に遊戯の二面性、闇遊戯を「自分」として受け入れることが大切なことだった。

その「やりすぎ」の部分もふくめて。

そして、どうなったのかというと……遊戯はまず徹底的に闇遊戯をサポートしだすのである。

闇遊戯をサポートし、場合によっては「主人公」の立場さえ放棄する。

いわば、ピンチヒッター的な役割に自らがシフトすることによって、闇遊戯を信じて任せる。

それまではほぼ「強引に」闇遊戯が出番を奪っていたが、そうではない、「君はいていいんだよ」をしっかりと教え、闇遊戯を自ら解放しているのである。

そして、自分は闇遊戯に「何かあったとき」のためにひたすら出番を待ち続けるのである。

それをマリクや瀬人に「器」「からっぽ」等と皮肉られたりするが、そこはまったく気にしていない。

自分が信じている相手を疑うようなことはしないだろう。

結果的に、その「サポート面」で遊戯は成長していくことになるとは何とも皮肉だな、等と思ってしまうわけではあるがw

個人的にそういう成長の仕方もいいなと思ってしまうのはどうしてなのか。

 

この遊戯のサポート面をカバーしているのが、遊馬にとってはアストラルなのであるが、遊戯はあくまで個人の問題、そして、アストラルは完璧に相手の問題になるので、遊戯の解決策がそのまま遊馬に向かうことはない。

アストラルにとっては「別に遊馬のことだし、関係ねえよ」で別に問題はないのである。本来ならば。


本来、遊馬はこの「哀しみ」に自分自身で気づき、受け入れ、乗り越えなければならない。

しかし、結構頑固でなかなかそれを認めなかった彼。

そこで、アストラルがそこに気づいて、おそらく、しっかりと遊馬に「哀しみ」という存在を認めさせた。

そりゃ、もう、遊戯並みに「徹底的」にそうさせた。

ともかく、後半泣き通しではあったが、敢えてアストラルは何も言わなかった。

まるで、今までの13年間分、泣けと言われているかのよう。

「泣くな、お前の肩には希望が…」云々言ってたのは、カイトさんですよね。


「絶対泣かない」と言いつつ何度も泣いちゃうのが遊馬である。


だが、別に放置していたわけではない。


アストラル自身もドン・サウザンドと戦い、エリファスを失ったとき

「泣いてなどいられないのだな」

と自分を鼓舞していたが、遊馬にはそれを求めなかった。


「だが運命は過酷な苦難を与えた。

 君は身も心もボロボロになりながら、耐え、乗り越え、私たちに勝利をもたらしてくれた。

 しかし、それは君自身が気づかないうちに、君から一番大切なものを奪ってしまった。

 だから、私は……」(145話)


遊馬は「一番大切なもの」は自分だといった。

この話を書いたときに「笑顔が涙にとってかわられた」という言葉が頭に浮かんだ。

おそらく、アストラル曰く、遊馬の「一番大切なもの」は「笑顔」だったのだろう。


個人的には、遊馬が自分の「本質」(哀しみ)に気づき、笑顔を取り戻すまでをラストのアストラル戦で書いているような気がする。

要するに遊馬、そもそも、泣き虫やねん、って話で…。


こんな話をするとアレなんだけど、「溺れる」という字は「水に弱い」と書くのです。

おそらく遊馬は涙におぼれ、自分を失っていたのでしょうね。

(この話が自分が好きなだけですw)

 

ここまで書いて誤解してほしくないのは別に「泣くこと」そのものを否定しているわけではないです。(遊戯の怒りも一緒ですけどね)。

皇の鍵と千年錠

 

「皇の鍵」は遊戯王ゼアルの象徴である。
その証拠にOPにて輝き、作中でも何度も意味ありげに光る。

だが、その存在を理解できない人も多いのではないだろうか。
私はできなかった(笑)

最初は、この「皇の鍵」は原作遊戯王の「千年パズル」と同意義だと思っていた。
そして、最後に「皇の鍵」はアストラルとともに、消滅するのだと思っていた。

しかし、実際は、闘いの儀を終えた遊馬の胸の中、なくなることがなかったのだ。
この鍵は「アストラル世界」の象徴、また、そこから「皇」そのものを意とする。

では、この鍵とはいったい何を示しているか。


【皇の鍵は「アンク」である】

 

この皇の鍵、実は「千年錠(千年アンク)」である。

 

原作においては、シモンが持ち、シャーディの手に渡り、最後にアテムによって封印されたが、それの成れの果てが、おそらくこの「鍵」になるのだ。

そんなバカな。原作の設定がいまさら来るのか!

原作遊戯王を少し思い出してもらいたい。
シャーディは、千年アンクで遊戯の心を開け、闇遊戯の存在を暴いた。
同時に、シモンは、千年アンクで、封印されていた魔神エグゾディアの封印を解いた。


そもそも遊馬は「繁栄」や「生殖」といった言葉が似あうと思っていたし、「生命の喜び・輝き」そのものといってもいい人間だと感じていた。

右京先生は「遊馬を太陽」と称したが、文庫版タロットのタロット解説を見ると、だいたい太陽の項目に該当している。

 

 

ちなみに、皆さんは「アンク」に似たカードをきっとご存じだ。

 

そう、「死者蘇生」。

 

原作では遊戯の切り札となり何度も彼を救ったカードだが、1話で、遊馬がオボットとぶつかったときに、シリーズの目玉になるであろう、ガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレムというモンスターとともに、一瞬だけ死者蘇生が垣間見れている。

おそらくは父一馬から受け継がれたものなのだろう。

初期の遊馬デッキにはなんとしっかりと入っていて、しかも、希望皇ホープを呼ぶ切り札として使われている。
勿論、激突!デュエルカーニバルやTFSPでもしっかりと彼のデッキ中に存在している。
アニメ7話では死者蘇生を2枚入れているという話も見受けられるが、別にアニメの世界は原作基準じゃないからね、仕方ないね。

ちなみに、その切り札が「ダブル・アップ・チャンス」に変わっていったことに関しては、いずれ、やりたいと思う。


「鍵を持つ」遊馬の本質とは「生命」そのものの持つ力なのである。

 

ちなみに、この千年アンクの力は原作においては、「人の心を暴く」というもの。


シャーディが遊戯の心を読むのに使っていたが、これをゼアル風に変えるとどういう風になるのだろう……。

それはもう、皆さんお分かりの通りで、はい、「遊馬先生」爆誕です。

そら、そうもなるわ……(^^;


これは私の仮説だが、遊馬は鍵がないころは、いわゆる意気地なし、弱虫、等の言葉が似あう存在だった。
しかし、一馬にかっとビングと鍵を与えられた。

彼は、その鍵で何を開いたかというと……「デュエルで人の心を読めるよう」になりました。
というより、鍵の力でばんばん他人を暴くようになった。

それまでは多少なりとも、デュエルの腕や勝てないことに悔しがっていたり悩んでいたのだと思う。
しかし、鍵の力で他人の心をのぞき見できるようになってからは、おそらく、それが楽しくて仕方なくなった。
そして、何よりも、「勝敗」という些細なものが気にならなくなった。おそらく、これが大きい。

 

「デュエルをすればそいつの全てがわかる」

 

遊馬は高らかとそういいますが、これがまんざらでもないことがうかがえる。

 

実際に、真月の件でベクターに瀕死にまで追い込まれ、ダークゼアルとなったとき、彼はアストラルの精神世界に侵入し、アストラルを「悪」から解放している。(98話)

 

やっぱり、「人の心をのぞき込む」なんて、まるでシャーディーじゃないか。


要するに、デュエルとは自分の腕とは関係ない、おそらく、遊馬にとって「他人を知れる機会」そのものなのだ。
彼にとって、得た情報を処理するのはたやすい。それをおそらく感覚でやっているのが遊馬なのだ。

 

 


【アストラル世界にとっての皇の鍵】

この鍵、実は「アストラル世界」から、しかも、「アストラル(らしき人)の手」によって渡されるのである。
アストラル世界は高度なエネルギー世界。
死んだ人たちが、ひたすらランクアップを続けるための世界である。

少なくとも、遊馬が来るまではそうでした。
その頂点にある「皇」、象徴たる力、それこそ「生命」そのものである。


どういうことなのか。


ちなみに、この「皇の鍵」……見ようによっては「♀」と「♂」を合わせたような形になっている。

……要するに、そういうことか?


アストラル世界は死人が存在し、ひたすらランクアップを目指すものとして、存在する。
そこに、「性的な営み」は勿論ない。
おそらく、親子や家族、恋人等の「絆」なども、本当は存在していない。

ただ、関係だけ、そこに「在る」だけである。存在するのみの存在。
「守りたい」という願い、なければ、何も感じなくなっていく。
全ては形式化、形骸化しており、そこの存在意味もランクアップできなければ無意味なものとなっていく。


おそらくは「皇の鍵」とは、「封じられた欲求」、彼らが「手放した生命の輝き」そのものなのかもしれない。
アストラル世界の人々は封じられた自らの欲求を「皇の鍵」として奉り、天井に置いたのだ。

 

同時に、この鍵…は「悠久なる生命の回帰」の象徴だと見て取れる。

彼らは、ランクアップを目指しながら、生命に満ち足りた、自分自身の過去、すなわち、人間時代の自分たちを思い出していたのではないだろうか。


【アストラルの「生命」の話】

遊馬のシンボル…おそらく、人間の「男女」から生まれた子、アストラル世界の象徴である「皇の鍵」を持つにふさわしい存在。しかも、その存在はアストラル世界の存在が、悠久の時を経て、人間世界にたどり着いた存在。
アストラル世界の禁忌を犯しまくった存在である。


アストラル世界は、そもそも「人間の魂」がランクアップした世界。

そのランクアップした魂の総意から生まれたアストラル。

その総意から生まれたアストラルの半分が、今度は「人間の子供」としてオーバーレイして生まれてくる話。(これこそ、ランクダウン)

 

おそらくはエリファスと同義の存在であるから、アストラル自身もアストラル世界の総意とみて差し支えない。

 

そんなアストラルが今度は「生命の力を得た」自分(遊馬)と出会い、「父母」を介さなかった「生命」が今一度、生命の原点回帰に立ち返るという話。

 

文字通り、アストラルの役目とは、本来の使命とは別にこの「生命」を自ら追体験することだと思う。

彼が「仲間のために勝ちたい」と願ったときに生まれたのが「カオスナンバーズ」であるホープレイ。

後々、バリアン七皇たちに、さんざん苦しめられる「カオスナンバーズ」を実は一番最初に作り上げたのが、ほかならぬアストラルなのである。さすがラスボスw。

しかも、このホープレイは「ランクアップしない」、ホープと同格のナンバーズである。しかも、純正なのかそうではないのか、ランクアップに必要な魔法カードを使用しない。

更には後半、遊馬とともに、ヌメロンコードの力を借りて同じくカオスナンバーズを作り上げている(ヴィクトリーのことです)。

そこには、バリアン七皇と同等のカオス「勝ちたい」「信じたい」という自分の欲求が込められている。


生きることは「欲望」を持つこと。

とは、よくイクニ作品で語っていることだがそんな純粋な祈り、欲求が込められたのが実はアストラルなのである。

欲望とは彼の「使命」や「意思」に反して行動を起こすことです。

そのせいで、遊馬をNO.96から守ったり、カオスナンバーズを誕生させたりと、アストラルもすっかりカオスの虜になってしまいました。

そりゃ、アストラル世界もアストラルをカオス認定して追い出したくなってまうわ。

ただ、アストラルが「カオスを持つ」プロセスは、少なくともアストラル世界にとっても非常に有意義なことである、結果的に。

アストラルが仮にカオスが芽生えず使命だけを遂行していたなら、アストラル世界は緩やかな衰退を繰り返しいずれ滅んでいたことでしょう。
アストラル世界がカオスを受け入れることで進化すると思い、彼はカオスを受け入れた。大丈夫、すべての責任は自分が負う。アストラルの意思に間違いはない。


遊馬を仮に「生命の輝き」と称されるべき存在であれば、その「生命」の意義をアストラルが体現している…のである。


【アストラル世界の問題とは】

 

アストラル「私は孤独だった…だから彼のことがわかる」


アストラル世界に蔓延する問題とは「孤独」そのものなのではないか?


遊馬「誰でも心のなかじゃ、良い心と悪い心が戦ってるモンじゃねぇのかよ!
でも、そっから逃げ出さなきゃ、きっとどんな事だってやり直せる!誰とだって分かり合える!
一人一人の苦しみも見ないで!何も知らないで!本当のランクアップなんて、出来っこねぇ!!」


この「戦い」とは別に戦争せよ、というわけではない。
特にアストラル世界の人に関しては、アストラル・エリファスにすべて自分たちの生存権を預けているように描写がされている。
自分たちは決して戦わず、すべての決定権を預けている。

もしかしたら、自らほかの人とかかわりあうことをなくし、自分たちから何かしようと思うだけ、希望を願うだけの存在になり果ててしまったのではなかろうか。
そこまでいけば「生命の喜び」等を感じることができないほど疲弊していた。

「戦い」とは常にだれかと結び合うことで生まれる。
その結びつきで、人と人が何かの理屈で大規模なものとなったものを「戦争」というが、人は多かれ少なかれ、人との交わりの中で、生命の喜びを感じていく。
それはたまに、深い谷から戻れないほど傷つくこともある。

しかし、リスクを恐れていては、大切なものも得られないのである。

 

やはり、そのためにはやはり「皇」の存在が必要なのだろう。
自らが戦うためではなく、人に「戦わせる力」を持った人間が。

遊馬は、アストラルは、そんな「皇」に近づくことができたのだろうか。

 

アストラルは、遊馬がアストラル世界に認められたとき、エネルギーをアストラル世界からもらい、蘇生した。
その時の顔が、本当にやさしく、慈愛にあふれている、安心した顔をしていた。

やっと、アストラル世界の人と、触れ合うことができた、そんな顔をしているのは、私の気のせいだろうか。

 

 

 

 

 


ここまで書いて、さて、遊戯王ゼアルは「人間賛美」や「生命賛美」なのかと言ったらそうではない。

というか、それだけなら私の考察は進んでいない(^^;

そして、真に生命賛美なら、あんなにラストで人は殺さない。ホープも殺意を持たない(キリッ)。そもそもカードゲームでどれだけモンスターという命がさらされておるんじゃ我!

ということです。

個人も「生命賛美」だけを書いて、逃げようとは思わない。が、ここまではどうも「皇の鍵」の考察から少しずつ外れてきているので、またの機会に「ゼアルのテーマ」として書きたいと思います。

そんなに難しい内容ではないですので、多分補足的なことだと思います。
それにはどうしても九十九遊馬のプロセスを経ないと書けませんで続きは彼の話を挟んでからにしたいと思っております。

 

 

追記:ここまで書いて重要なことを書き忘れた。

「鍵」といえば、「アレ」だよ。あれを書かないと100点もらえない。

 

ビヨンド・ザ・ホープ 希望の限界…とは?(リライト多分します)

希望、夢、あるいは、未来というのは、そりゃあ、少年あるいは少女向けアニメや漫画で死ぬほどお世話になった人がいるだろう。

ただ、それらの言葉を説明しろと言われて、うまく説明できないのではなかろうか。

希望とは…明るい見通し。何よりも「望み」と置き換えられる。


ちなみに、遊戯王ゼアルの主題歌(第1期OP~第6期ED)までで一番多いワードは…なんと「夢」である。

希望ではなかった。

余談ですが、5D'sで一番多いワードは「明日」でした。


夢と希望、よく一緒に語られるがその性質の何が違うかというと、「今」の視点から遠くにあるものを「夢」という。

そして、「今」の視点から「近くに望まれるもの」を「希望」という。

例えば、医者になりたい、スポーツ選手になりたいetc…これらは比較的「遠い未来」に望まれる。これが「夢」だ。

しかし、「希望」とは比較的近くにあるものだ。

場合によっては、身近なところにある。というか、転がっている、そのあたりに。

希望を「望み」とした際に、実は人間は絶望すら拾えるのである。

それが人によって「明るい見通し」なのか、それとも「破壊的な望み」なのかの違いだからだ。

ずっと前に「遊戯王」にとって、「愛と憎しみは同質なもの」という考察を書いたことがある。

あえてそれに倣って書けば希望と絶望は同質なものだ。

絶望がそばにあるのに希望がないはずがない。これは私の持論だ。

 


“人が希望を超え、夢を抱くとき、遥かなる彼方に、新たな未来が現れる!”


しっかりとビヨンド・ザ・ホープに書かれてましたね(^^;

やはり、私の認識はあっていたようです。

(近い未来に)希望があり、(遠い未来に)夢が来るのだと。(誰だよ絶望とかいったやつ)。

あれほど、デュエルチャンピオンの夢を抱いていた遊馬、実は特にⅡになってから、ほとんど「夢」の話をしなくなった。

1話から「俺はデュエルチャンピオンを目指す」と言ってましたからね。

あれほど、目をキラキラさせて何事にもまっすぐに進む彼。


その書き方に私はうなったわけだが、それでも、歌詞に出てくる「夢」が非常に気になってはいた。


仮に、ゼアルが全編を通して「希望の変遷」を描いていたのだとすれば、最終で「希望と夢(未来)」の戦いを密かに描いていたとも思える。

確かにラストはそれに近い。


“人が希望を超え、夢を抱くとき、遥かなる彼方に、新たな未来が現れる!”


遊馬たちもうすうすは「希望」の限界を知っていたのかもしれません。

希望の次は、ズバリ「夢!」


……ここまで書いて夢の考察が進みませんのでこの辺にしてください(^^;

 

アストラルの希望

 遊馬の物語はそのままアストラルの物語となる。

 おそらく、アストラルはエリファスと同位の「神」であるといえる。

 神は願ったり、望んだりしてはいけないのか。

 むしろ、人間は神に好き放題に自分の希望を述べる。それは人間の特権だ。少なくとも神のできることではない。

 今回の「ヌメロンコード」の使い方を彼は「私はバリアン世界を滅ぼし、遊馬の記憶を消す」といった。

 本来そうなったであろう未来。

 勿論、これは遊馬に「はっぱをかける」ための嘘ではあったが、その使い方ひとつにしても、彼は遊馬たちが住まう世界の人々と触れ合うことによって、彼もバリアン世界の扱いを変えなくてはいけなくなった。

 それは必然なのか? それとも、アストラル世界の人々が願ったことだろうか……。

 それとも、遊馬が願ったからだろうか。

 いいや、アストラル自身が願いを素直にかなえたである。