すまん、何があったんだ…
なんか、毎日40名くらいの来客がある……、
ベクターのおかげか?(笑)
来訪者の皆さんありがとうございます。
荒らし様は結構ですが、いつもご覧いただきありがとうございます。
ゆっくりと時間をお過ごしくださいませ。
【人物考察】ベクター 純粋という名の害悪
【人物考察】ベクター 純粋という名の害悪
遊馬の考察がだいたい煮詰まってきたので、もうそろそろ七皇を取り上げようかなぁと思います。
今回は、ベクターをやります。
というか、このキャラ、あまりにも「メタ」すぎるので、考察にしては簡単になるかななぁ。等と思います。
ベクターがアストラルに渡したナンバーズを覚えていらっしゃるだろうか。
「リミテッド・バリアンズ・フォース」じゃないよ。
答えは「マスター・キービートル」……そう、「キー」、つまり、鍵。
ピーン、と来た人は考察慣れてますね。
「鍵」とはすなわち「皇の鍵」である。実は、ものすごい「遊馬」に対してのメタキャラ。
遊馬とアストラルの関係の対として、NO.96やドン・サウザンドと組ませるなど、やはり、どこかしら遊馬と対になる存在として物語を駆け巡っている。
思えば、過去のナッシュとの対決も、遊馬とナッシュの戦いになることへの「示唆」ともとれるわけです。
ま、ベタベタだけにわかりやすいですですよね、ベクターって(^^;
【ベクターは純粋なキャラ】
いやいや、ゲスでしょ、どう見ても。という方もいらっしゃるかもしれませんが、それは個人の感想。
私がベクターを見たときは、遊馬と同じですかね。この純粋さ、好きだなぁと。
トロンとかフェイカーなんかよりも、ずっと単純で簡単なんですよ。
トロン、フェイカー、シャーク。みんな「信念」を以て悪事を働いていた。あるいは、それを突き通そうとした。
しかし、「純粋悪」をベクターはひたすら通している。
そこには信念も希望も何もない、ひたすらに「悪」を貫くだけの存在。
その「純粋さ」が真月零にももろ表れている。
では、どうしてそこまで「純粋」でいられたのか。ちょいと語っていきたいと思います。
【「何事も達成できていない」ベクターのジレンマ】
ベクターといえば、過去のナッシュとの対決では敗北。
七皇になったと思ったら、七皇のナッシュがリーダーになってるし、その下につかないといけない。(ジレンマやなぁw)
フェイカーを操って、ゼアルに負ける。
真月零として登場し、遊馬とアストラルを瓦解させようとして返り討ち。
ついでに、ナッシュに追撃されて自滅。ドン・サウザンドを利用したつもりが、利用された挙句に生贄化。
……なんだ、この敗北の歴史は!
その中で唯一彼のほめるべき点は、まぁ、ナッシュを人間世界に送ったぐらいでしょうか。
しかも、そのナッシュが、敵対すべき遊馬とアストラルと親友になっちゃうので、結果的にあんまりよろしくない結果に収まったように思える。
ベクターは「純粋」……要するに「子供」なのである。
よくピーターパンシンドロームやアダルト・チルドレン、等と言われますが、その傾向に近い。そして、ベクターが「大人」になれない理由は、「何も自分の手で成し遂げてはいないから」である。
自分のしてきたことに「責任」を以て行動し、その結果を得られたのであれば、それなりに自信もつくが、彼はその「責任」すらドン・サウザンドに奪われてしまった。
自分の運命すら誰かに決められる。
以来、彼は「自分とは何か」を延々と悩み続けるが、その心を打ち明けられる友もいない。
そうなると、誰も信じられなくなって、孤独になっていく。
そりゃね、世界を憎みたくなる気持ちも、ナッシュを恨みたくなる気持ちもわかるわ。
「孤独」と「純粋」を持て余した彼は、結局は「悪」を行使し、人を蔑むことで「感情」を、もとい、快感を得るようになっていく。
「感情」に左右され続け、自制心を失い、心を壊してしまったのだ。
そうなると、やはり、結果も歴然。
やることなすこと、失敗ばかりで、成功例がない。そして、そんな自分をさらに恨んで無限ループ。
人を傷つけることだけが、唯一、腐りきった自分を慰める方法。
ベクターの心の奥底には「どうすることもできない自分の幼子が、泣きわめいている」姿が見えなくないか。
そして、最終的に、自ら導き出した答えが「自分はドン・サウザンドの生贄」……もうやだ、バリアン世界。
……うん、ここまで書いて「ドンさん許さん」と思ってしまった(^^;
本当、救いようがねえな。
最終的には、自分の贄の人生と人生を狂わせたドン・サウザンドへ立ち向かうわけではあるが、それでも、遅すぎる気がしないでもない。
そこで協力してドン・サウザンドを倒せればまた別なのではあるが、長年孤独にさいなまれた彼に、果たして「協力」や「結束」等という言葉があるのだろうか。
その解決策はシャークにあった。しかし、彼の胸にあるのは「結束の力」…もとい「千年パズル」ではなく、バリアンズシール。
残念ながら、ベクターを救うためには、バリアン七皇の力だけでは足りないのである。
やはり、
「絆で明日を 繋いでいこう!」
遊馬たちの結束の力が必要だったのか。
七皇は、「アストラル世界に行くべき」魂を利用し、運命をゆがめ、バリアン世界に転生させた。
ベクターの純粋さは「高貴、高潔」を以て本来ならば、アストラル世界に向かったのだろう。
……というより、個人的には、このベクター。
彼に「両親殺し」という罪をかぶせ、狂気に導かせたのち、ナッシュと戦わせる運命を選ばせた。
要するに、ナッシュのための土台作り、もとい、「当て馬」的な役割ではなかったのか。
何故なら、ポセイドン王国には、ナッシュ、メラグ、ドルベという3名も引き抜きたい人物がいたからである。
しかも、その中でとりわけナッシュに関しては、自らバリアン世界に来るように仕向けなければならないので、そこに狂気を助長させて、敵対関係を作り上げた。
そりゃね、ベクターがナッシュを恨んで、1億ポイント貯める気持ちがわかるよ!
当て馬にされた挙句、転生先でも上司になってるんだから。
ドン「安心せい、ちゃんと七皇の席は用意しておいてやる。ただし、ナッシュが上司な」
ベク「……」
【遊馬にとってのベクターとは】
「似たもの同士は反発する」
磁石のNとNがくっつかないように、人間の精神もまた「似たような人間」と相対したときに、自然と反発しあうものだ。
そもそも、遊馬とベクターはお互いに「人心掌握」に長けている。
遊馬は人の「心」を互いに分かり合おうとするのに対し、ベクターはそれを悪用し、自分のためにひたすら利用する。
やっぱり、ベクターが「鍵」を持っているキャラクターだということなのだろう。
これは勿論、「キーパーソン」という意味でもある。
詳しくは「皇の鍵と千年錠」で見てもらいたいのだが、遊馬の「皇の鍵(=千年錠)」がベクターの場合、NO.66マスター・キービートルとなっているわけだ。
何より、二人が持つ「純粋」は遊馬にとってもベクターにとっても「認めたくない自分」そのものだと見て取れる。
勿論、遊馬とベクターの「純粋」の内容には違いがあるのだが、それでも、同じ「純粋」を所持している存在であることには変わりがない。
私的には遊馬の純粋はいずれ小さくならなくてはいけない「成長に必要な過程」であるのに対し、ベクターの純粋さは肥大化し、自分では抑えこめなくなっているもの。だと思っている。
というよりかは、ベクターはそんな遊馬を見ていても、どこか「自分」を彷彿とさせるために消滅させようと思っていたに違いない。自分を認めたくない、どころか、許したくない、消し去りたい。人を蔑み、裏切り、傷つけることが容易である彼は、そんな思考に結びつくのは簡単なことだ。
「遊馬…、悔しがって叫ぶさまはいつ見ても快感だぜ」
加虐心ばかりがはぐくまれ、自分の姿が他人に投影されようものなら、そのものの破壊や消滅を安易に願うのである。
ただ、ベクターがやらかしてしまったのは、その「純粋」をこともあろうか、真月零で出してしまったこと。
真月として遊馬の心につけいり、弱らせるところまではよかったのだが、それ以上に自分の弱みをさらけ出しすぎた。
しかも、相手は「人心掌握」の達人。少し前にも書きましたが、「皇の鍵」の力は「他人の心を暴く」力。
堂々と急所を教えてしまっているみたいなものですから、遊馬にそれがわからないハズがない。
遊馬がベクターを最後の最後で助けようとしたのは、「遊馬とベクターそもそもが、似通った存在だと確信している」だからだと思っている。
憎みたくても憎み切れない。
もしかしたらあり得たかもしれない自分自身がそこにいるような気がして、放っておけない。
そもそも、ベクターの敗北を重ねた人生に、自分の「アストラルと出会う前の自分自身」が否が応でも重なるはずだ。
言うならば、遊馬の挑戦の精神「かっとビング」が、ベクターの場合は、ただから回っているのである。
運命というのは、1歩道を踏み間違えただけでも、大きく違ってくる。
そのきっかけがドン・サウザンドだった。
ベクターの場合、その1歩1歩の積み重ねが最悪の結果を生み出しているに過ぎないのである。
遊馬は真月の「純粋」に騙されたが、ベクターはどこまでも「純粋」なる「悪」を通し続ける。
遊馬は1歩の差で、自滅する運命を迎えたかもしれないと思うとやはり、放ってはおけない。
例えば、自分が出会ったのがアストラルではなく、ドン・サウザンドだったら?
アストラルと出会うことで、彼は「負け続ける」人生に終止符を打ち、仲間や絆や目標ができた。
言い換えれば、その出会いも「奇跡」みたいなものである。
アストラルと出会わなかったら、ドン・サウザンドと出会っていたら……未来は違っただろう。
「だったら…、もう1回信じる! 心がないなら、心ができるまで、俺は信じる! それが俺のかっとビングだ!」
そんなベクターの悲劇、彼の運命を、そして、ベクターの心を受け入れ、「やり直し」をしようと提案する。
思えば、初ゼアルⅡ、ベクター戦の時も「リ・コントラクト・ユニバース」(世界を『再構築』する)力でした。
ベクターと「やり直し」はリンクしていたんですね。
アストラルが遊馬の支えになってくれたように、ベクターの支えに、今度は自分がなろうとする。
「一歩」でいいんですよ。一歩の引き寄せが、うまくことを運ばせるのです。
「だったら、俺の道連れになってくれよ! 俺と一緒に逝ってくれよ…! 遊馬ぁ…!!」
「ああ、いいぜ、真月。お前を一人になんてさせない、俺がお前を守ってやる」
遊馬はベクターの悠久の孤独に「運命や境遇を共有する」ことで、一筋の光明を見出した。あとは、ベクターが変わるのを待つだけである。
追記:ここまで書いて、やっぱり、ドンさん許されなかったです。
これは自分でもまとめて好きだったので転載。
同じこと書いているので。
の後半ですね。
勢いで書いちゃいましたが、結構いいところ突いてると思ってます。
皆が「ベクターは救われない」と話すので、個人的には遊戯王的には「ベクターほど救われないはずがないキャラクターはいない」と思っています。
逆を考えれば、ベクターが救われなければ、覇王化した十代も人をさんざん苦しめた瀬人もマリクも、同じように救われないはずなのですよ。
個人的にベクターが役得なのは、本当に「遊戯王ルールにのっとって救済されてる」からなんですよね。
逆を言えば、「問題提起」に一役買っている。
ベクターの問題って「孤独」なんですよ。
結局、信頼できる相手がいなかったとか、相談相手がいなかったとか、まぁ、1期初期のアストラルに似ているといえば似ているのですが。
だから、努力家で計算を怠らない部分は十二分に評価できるのですが、「人間の信じる心」とか、可能性とか、「人間の関係性」の中で生まれることに関しては、めっぽう弱いんですね。
彼が1人で戦わず、仲間と協力して追い込めば、遊馬たちは負けていたかもしれません。
ま、1人で戦うからベクターって格好いいっていうのは勿論あるのですが。
「三人寄らば文殊の知恵」ではありませんが、1人で解決できないことを他人との関わり…、「関係性」の中から解決しようというのが、遊戯王の原作から続く問題提起ですから、そういう意味では、遊戯王の「問題提起」としてはすごい役得なキャラクターともいえます。だから、最後、ベクターは救われるんですけどね。
ただし、ベクターが「人との関わり」を拒絶し引きこもっていた場合(その究極がドン・サウザンドなわけですが)、救われることはなかったでしょう。どんな状況でも勇気をもって1歩踏み出した人間こそ勝つのです。
「関わり」が味方か敵か、正義か悪かはほとんど関係ない。何度もぶつかれば、そのシグナルは誰かが受け取ってくれる。今回遊馬というキャラクターが受け取った。ミザエルの場合はカイトが受け取った。1期ではトロンも同じです。
原作遊戯王では、おそらくその「関係性」…仲間たちの絆による解決策を「結束の力」と呼んでいるのです。本当、うまく言い得たものです。
ゼアルでは「結束の力」という単語が出てきませんが、遊馬はばっちりそのスピリットを持っているので問題ありません。逆にシャークになくて大変だったりするのですがw
私が遊戯王好きな理由はここなんです。「悪」をすっかり解放して思う存分暴れられる、悪を「いてもいいんだ」と許容できる世界なんですよね。
そりゃ、闇遊戯という「悪」が主人公なんだから、問題解決は「正義と悪」という問題から切り離されなければいけないのは当然なんだけど…。
だから、好き放題暴れているNO.96がアストラルよりも好きなんですが(笑) 3DSのWDC、カードプロテクター遊馬で、フィールドNO.96なので、いろいろ察してください。ベクターもベクターで、衝撃の真実さらした後のほうが落ち着いてみられるという…何それ。
ちなみに、そんなドン・サウザンドのような卑怯者、他人との関係を拒絶した者、「引きこもりこそ救われるべき」というテーマで書いたのがアークファイブのBB戦。うん、いいこと言ってたんですよ。視聴者がつかめなかっただけで。
しかも、何を思ったのか最後らへんに持ってきたので余計にわからなくなり、尺稼ぎだとかさんざん言われてましたが、これはいい問題提起でした。ただ、他の人に伝わったのかは本当によくわかりません。
ちなみに、ゼアルではドックちゃんとキャットちゃんのデュエルでそんなことをテーマにしていたように思います。
ドン・サウザンドもそうですが、NO.96も他人との関わりを拒絶しまくったキャラですよね。
次作VRAINSは仮想現実を使って、「引きこもりで何が悪い」という一種の開き直りをしましたよね。別に悪いことではないですが、リンクス宣伝…そうですか(汗)。そりゃ、指摘されてた通り、キャラクターはみんな「孤独」にもなるわ。
また、SEVENSで外に出始めるようになって、やっぱり、このほうが遊戯王的に落ち着くと思ってしまいますね。
……救われると言ったら変かな。「手を差し伸べられるべき」だと思います。
遊馬はうまくベクターに手を差し伸べただけです。
その手にどう応じようとするのか、それは自分自身に委ねられただけなのです。
【後日談】
ここまで書いて、あまりにも後日談がないので、少し書きます。
ベクターが今後必要になってくるのは「決断力」と「成功体験」でしょう。
物事の裏で暗躍するのではなく、時には、自ら何かを発信しながら、物語の舞台の中心的な役割になっていくのがベクターが救われる道ではないかなと思います。
個人的には目指すべき理想像は、5D'sのジャックかな。と思ったりもする。悪魔族メインだし、主人公のメタキャラだし、相性はいいと思います。
ちなみに、こんな動画があるので見てみることをおススメしておきます。
遊戯王の主人公がもれなくサポート系、フォロー系主人公に陥ってしまいがちなので、実は、活躍のチャンスはあるのである。
手品師とか、いいですよね。
まぁ、キャラクターの今後を邪推するのはよくないですが、それだけ愛されたキャラだけに今後が気になるキャラクターでもあります。
遊馬は「何者でもない」かっとビングの教え
【かっとビングとは「自分定めない」精神である】
一度タイトルで「勇者の凱旋」というタイトルが出ました。
やっぱり、遊馬は勇者だったか。
ドラゴンクエストの生みの親、堀井雄二さん曰く、勇者とは「あきらめない人」のことを言うらしい。
うん、一言一句間違っていないですね! 素晴らしい!
しかしですね、皆さん、「あきらめる」という言葉を誤解している。
あきらめることは、決して悪い言葉ではないのです。
ただ、ドラクエをはじめとして、少年たちの間で、「あきらめない」が出回ってしまったため、「あきらめる」は非常に肩身がせまい。
「あきらめる」とは「明らかに極める」が語源となっています。
「諦観」という言葉がありますが、これは「物事について見定めること」を意味します。
要するに、何かに対して、自分が「これだ」と認識すること。
こと、ゼアルにおいては、「自分自身を見定める」ことを意味します。
しかし、前提として、遊馬においてはこれらがないわけです。
皆さんは、大人になるにつれ、そういう意味で「物事の見定め」たる「あきらめ」を人間は成長の過程で学んできたはずです。
そして、それらのほうが処世術においても、有意義であることをおそらくはご存じだ。
勿論、敵役は「もうあきらめちまえよ…」と何度も煽るのですが、それでも頑なに「あきらめない」を誇示します。
それは彼のデュエルにも、考えも同じでホープを出し続けたり、負け続けデュエルをしたりと、根本的には同じ。
これをよく世間では「バカの一つ覚え」と言いますが、それでも勝つのですよ。
でも、それこそが実はゼアルにおいては大切なことだと教えているわけです。
アストラルは七皇について、自分たちの過去を知らせましたが、遊馬にはそのことを教えませんでした。
おそらく、七皇に限っていえば、ドン・サウザンドによってゆがめられた人生を送ってしまったという理由からでしょう。
遊馬に自分の過去を諭すことはおそらく、「自分を見定める」……「あきらめる」行為、いわば「かっとビング」そのものの否定を意味します。
前にも話しましたが、アストラルとかっとビングがほぼ自分成分の彼は、おそらく、「自分という鎖」にとらわれることだけは、よしとしない。
アストラルが「鎖」になっていることには、全くもって異論はないのに、いざ「自分が鎖」になると途端に動けなくなってしまうのでしょう。
唯一、「自分を制御」できる(かもしれない)存在が実は「運命の扉」だったのですが、それも最後の最後で壊していきました。
アストラルが必死になって遊馬と「自分探し」(ナンバーズ集め)をして自分の可能性について真剣に悩んでいる最中、相棒の遊馬は、そんな自分探しなど論外なところで好き放題暴れているわけです。
まるで、自分の悩みなど「とるにたりない小さなこと」のように。
アストラルにとっては大迷惑かもしれませんが、そんな二人の関係がほのぼのとしていて私は好きなのではありますが(^^;
天馬、今ここに解き放たれ、縦横無尽に未来へ走る。
これが俺の、天地開闢! 俺の未来!
未来皇ホープを出した時も「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」ですからね。
この子、どれだけ、自分に興味ないんだよ……と半ばあきれてしまいました。
【思春期前の子供に「あきらめない」ことを教える理由】
遊馬は13歳という、今ではSEVENSの遊我君が出てきたのですが、それまで最年少主人公でした。
13歳と言えば、思春期入りかけ、「本当の自分」とは何か、「自分探し」や、将来に関して興味深々になっていく年頃です。
そんな時期に「自分を定めない」精神を持った子供が文字通り縦横無尽に走り回るわけです。
要するに思春期なのに、中身はまだ純粋すぎるガキという。
そりゃ、色々なことに悩み苦しむシャークさんも、遊馬には「イラっと」するかもしれません。
前作の遊星は18歳。遊戯も十代も少なくとも元服(15歳)を超えた年齢でしたから。
皆、10代の「思春期」というものを経て、大人になっている年頃の子なんですね。
もう、世間からすれば大人と言われてもいい年齢。
しかし、彼は13。いやいや「かっとビング」精神持ちだったら、年齢下げなくてもいいじゃん。と思っていました。
「俺の未来はまだ何も決まっちゃいねえ」
結局、遊馬はラストのラストまで「遊馬のまま」でした。
確かにデュエルチャンピオンという肩書もあるのですが、それもしっかりと形骸化しており、後々それほど語られることがなくなります。
自分というものは結局「自分自身は何者でもない」ということの意義だと私は思っています。
結果的に、誰が自分をどう言おうと、自分が「これだ」と決めない限り、自分自身は「何者ではない」のである。
よく言う「自分の可能性を閉ざすな」「お前はまだ何者でもない」ことの意味である。
安易に自分自身を定めて、可能性を閉ざすな、挑戦しろ、自分自身の限界に挑め
そういうことなのである。
これを「自分自身に悩む」年頃の前にきっちりと説教しておく必要があった。
「君は将来何になりたい?」と言われて、決まっている人はいいだろう。
「本当になりたいか?」そう問い続けるのもよいだろう。
「決まっていない」なら堂々とこれからどんどん可能性を模索していけばいい。
そして、それは全く悪いことではないことを教えている。
だから、遊馬は13歳。
しかも、彼にはかつて5D'sにあったような「将来の描写」はない。(漫画版にはあるけどねw)
何気ない日常を延々と過ごしながら、ちょっとした「鼓動」に気づいて、危険を顧みず飛び込んでいく。
目の前への強く踏み出す一歩、そして、その積み重ねが未来につながる。
これは、progressという歌詞からの引用
“ぼくが歩いてきた 日々と道のりを ほんとは≪ジブン≫というらしい”
自分が何者か、なんて実は小さいことなのかもしれません。
【遊馬はシャーディなのか】
ここからは余談
ここまで書いて、遊馬って実はシャーディなんじゃないか。なんて思ったりもする。
シャーディは「鍵」を使いました。千年アンクの持ち主ですね。遊馬も「皇の鍵」をもつ。そう思うのは、ダークオブディメイションにおいて、監督が一緒だからなんだよね(^^;
彼は、次元を超えることで、浮世の悩みを浄化しようとしていた。
そこに、藍神たちが絡んでくるわけで。
シャーディはいうなれば、「教祖」であり、原作でも、ペガサスに千年眼を与え、デュエルモンスターズを作り出したそもそもの原因。(原作ではM&Wだけど)
何より、ダークオブディメイションにおいては「次元を超える」存在として描かれている。
遊馬もまた長い間、アストラルの半身として、ふらふらと何千年も放浪したキャラとして描かれているのですが、その間、やっぱり、「次元」を行き来してたのかな、最後の終の住みかとして人間世界を選んだんじゃないかな、なんて思えるえわけです。「旅」なんですよ。吉田松陰みたいじゃないですか。ただ、旅の結果はあまりよろしくなかったようで。
彼に「自分」がないのは、そうした次元を移動することによっての「悟り」ともとれるんですよ。多分、次元を移動することでいろいろなものを数千年見てきたのでしょう。(いや、宗教じゃないですよw)
「悟り」というのはいわば「あきらめ」ですから、この現世でも、「心が死なない」ように、父は魂に「あきらめない心」かっとビングを遊馬に教え込んだ、ととれる。おかしい言い方ですが「悟り」と「あきらめない心」という一見矛盾したものを遊馬は持ってるんです。
シャーディは結局、次元を移動して、「あきらめる」ことを学んでしまった。「苦しみ戦争も何もない」世界を捨てて違う次元を行こうとする。これって
「人の苦しみも見ないで、知らないで、本当のランクアップなんてできっこねぇ」
につながる。結果的に、シャーディは何もできなかった。藍神も、最終的には遊戯たちを選んだ。シャーディが「死後救済」(次元移動による解決)を唱えるのだとしたら、遊馬は「現世救済」をひたすら説くのである。それが「可能性」という言葉で現れている。
だから、遊馬には「希望」(現実的な解決手段)を与えられた。ホープはひどい言い方ですが、殴るためにいるんですよ。「うぬぼれるなぁ」ってね。熱血教師かよ。だから、最後、遊馬も殴られる必要があったんです。
よく遊馬のベクターを救おうとした姿が「菩薩」だと言われるのだけど、そういう意味では「現世」の悩みに答えをもたらす「菩薩」というのも、答えとしてはあっているんですよね。
そう考えると、シャーディはかき回しただけかき回して何もできなかったという結論になるのですよね。奇怪で、一時はボバサというキャラになり遊戯たちを導き、最後は「自分の正義」のために誰かを利用する。(これって、ベクターっぽいなぁ(^^; )
遊馬が仮にそうなってしまった場合、遊馬はラスボスとして倒される運命にあったかもしれません。
とはいえ、個人が考えるのは、こいつは「瀬人」には似ているけど、シャーディじゃないんだよな。シャーディぽいのは、アレなんです。「皇の扉」。
遊馬には(遊星にはないけど)お決まりの「二面性ぽい」キャラクターがいないのです。(アストラルやベクターはまた別の話)。唯一、二面性を持つ遊馬の身内って、1人だけ「皇の扉」なんですよ。
だから、私は、皇の扉を「過去遊馬」、あるいは「あきらめ遊馬」とみているわけです。よく「運命にあらがえ」なんて言葉がありますが、運命の扉はいつでも「あきらめ(=悟り)を待ち望んでいる」存在だととらえると、「一生懸命に頑張る」ことを全否定、運命に従え、世の中に従順しろ、という扉の声が聞こえてきそうなわけですよ。遊馬からしてみれば、「運命」が勝つか、「あきらめない心」が勝つか、の追いかけっこみたいなものでした。アストラルはそのおいかけっこに終止符を打ったのでしょうか。「運命と向き合え」の意味なのでしょうか。
シャークは運命と向き合った。遊馬はうまく運命と向き合えたのだろうか。
遊馬は「哀しみ」を持った主人公
【悲しみを受け入れろ、主人公の苦難】
原作遊戯王の表遊戯は怒りの体現ができませんでした。
怒りを全て闇遊戯に背負ってもらっていました。
この「怒り」に自分自身が気づくことにより、闇遊戯を受け入れ成長していく。
遊戯王の主人公たちはそれぞれ「喜怒哀楽」を1つずつ体現させていると思っていた。
少なくとも、表遊戯と闇遊戯の「それ」は勿論「怒り」である。
遊戯は「怒り」、十代は「楽しさ」、遊星が「喜び」を表しているのなら、5D’sが終わった段階で、次の主人公は勿論「哀しみ」を持った主人公が来る、とシリーズが続きながら考えていたのだが……
はて、遊戯王で哀しみを描くのだろうか? どう主人公に哀しみを持たせるのか? と思ってはいました。
最初は、遊馬って絶対泣かないキャラだと思ってました。
いや、「喜怒哀楽説」も終わり…と思ったら、実は後半から雲行きが怪しくなっていく。
……案の定来たよ、これ。
意図的に遊馬については「哀しみ」を特に強調して描いている。
勿論、元気いっぱい、天真爛漫さが強みな彼であるのだが、その反面、暗いものは確かにある。
ともかく、遊馬は泣く。
おそらく、本編でも、表遊戯以上に涙を流す描写が圧倒的に多い。
……なんでこうなった。
やっぱり、主人公喜怒哀楽説は存在したのだな!(違う)
一つアニメの制作事情を考慮すると、それぐらいメリハリつけてないと、主人公ってかぶりやすいですからね…考えてるな。
ちなみに、「喜怒哀楽」すべての感情を一緒くたにしたのが、ARC-Vというね(^^;
遊矢=怒り(遊戯)、ユーリ=楽しさ(十代)、ユーゴ=喜び(遊星)、ユート=哀しみ(遊馬)ととらえると、ちゃんと合ってますね!
若干、十代と遊星が不安だけど…w もしかしたら、逆かなと思うけど、そこは皆さまのご判断にお任せします。
遊矢が再び巡り巡って「怒り」というものに支配され、コントロールがきかなくなるのだけど、これって、要するに原作遊戯王に「原点回帰」してるんですね。
VRAINS以降は「感情シリーズ」ないので心配ないです。
確かに遊馬は「悲しみ」というコントロールが苦手であった。
これは、遊戯の「怒り」のコントロールが苦手なことと同じである。
最初遊馬の圧倒的な明るさに騙されがちだが、23話でアストラルは彼のことをカイトの会話の中でこう称している。
「私は君に魅せられている。遊馬と同じものを持っている君にね。
そうだ。私は遊馬に乗り移ろうとした。
だから、彼の心を感じることができる。
遊馬の心の奥にあるのは、両親を失った悲しみ……
そして、悲しみの中で両親の教えを信じて生きていこうと、あがきもがいている」
アストラルがこの時「悲しみ」という本質を遊馬の中から見出している。
さすがアストラルやな、とは思うのだが、このセリフ、よく聞けば結構フラグじゃないか。等と思ってしまう私がいた。
そう思うに至った経緯は勿論、19話で遊馬が話した父と母の話である。
そもそも、この「悲しみ」そのものの感情に、遊馬自身が気づいていない、ことが問題なのだ。
【悲しみを理解せよ】
では、どうして遊馬は悲しみに気づかないのか。
おそらくは父と母がいなくなったことが原因だった。
しかし、彼には父母がいなくとも、仲間も、姉も、祖母もいて、不自由なく生活できている。
そして、父と母からかっとビング精神を受け継いでいる。
その時に「俺って恵まれてるじゃん」と勘違いして、父母を失った悲しみを心の中に抑えてしまった。
本当はもっと甘えたい、もっと教えてもらいたい。
その心を置き去りにし、彼は心の中に封印してしまった。
彼はカウンセリングの天才だとか、遊馬先生だとか言われ、その「人の心の理解」できる早さは確かに尋常ではないのだが、裏を返せば、「自分の心を知ってもらいたい」という、遊馬の慟哭にも似ている。
そして、自分の心を知らずに叫んでいるようでもある。
「あいつらはみんな、あんたがいなくてさみしかったんだよ!不安で、泣きたくて、一生懸命だったんだよ!」
そう叫ぶ彼の心は、まるで自分の心を語っているかのようだ。
良くも悪くも、この出来事が遊馬の原点である。
もっと真剣にその時自分の感情を理解していれば、ゼアルという作品ももう少し変わっていたかもしれない。
【悲しみの共有】
個人的に、アストラルと闇遊戯は何が違うかというと、闇遊戯が表遊戯の怒りを「共有」しているのに対し、アストラルは理解だけはしているけど、「共有」はしていないのである。
では、相棒のアストラルでもできなかったこの「悲しみの共有」という問題の解決策は誰にあったかというと、おそらく皆さんお気づきなのではないだろうか。
スリー(Ⅲ)、こと、ミハエルである。
Ⅲは後半こそ遊馬の理解者になったが、最初、「似たような境遇」で明るすぎる彼を理解できなかった。
Ⅲは遊馬とのデュエルの果て、「心の悲しみを共有」することで親友になれた。
思えば、遊馬が涙を見せ始めるのは、実はⅢ戦あたりからだった。
Ⅲのおかげで遊馬は、自分の「悲しみ」を表にすることができるようになった。
Ⅲは「一緒に涙を流していい相手」である。
「苦しい時は、一緒に、思い切り泣こう」
それができるのがⅢなのである。
そして、遊馬にとっては最大の試練であったアストラルとの別れの後、真っ先にその「悲しみの共有」すべきと現れたのがⅢだった。
自分の心を露わにできる相手が傍にいてくれることでどれだけ安心できたのか。
それは蝉丸とのデュエルで如実に現れているので、今一度見ていただくことをおススメする。
【悲しみを受け入れよ】
「共有」できたらはい、それで終わり。んじゃ何もならんのだよ。
それじゃ、闇遊戯が好き放題やることになる。あくまで「共有」はきっかけに過ぎない。
ここで、少し私の整理のために、原作における遊戯がどう闇遊戯(怒り)を乗り越えたのかお話しさせてもらう。
遊戯は優しい性格のため、物理的にも精神的に他者への「対抗手段」がない。
例えば、同じ少年漫画でいえば、この「物理的対抗手段」は暴力だとか能力だとか言われるものである。
これを「怒り」という感情をきっかけに闇遊戯が現れ、彼が罰ゲームをして裁くのが初代までの流れである。
闇遊戯の存在は遊戯にとって嬉しかったが、この闇遊戯は、遊戯にとっても相手を闇の底に叩き込む、自分の命を勝手に代償にする等、「やりすぎ」と言われる面が節々にあった。
これは同時に遊戯の二面性、闇遊戯を「自分」として受け入れることが大切なことだった。
その「やりすぎ」の部分もふくめて。
そして、どうなったのかというと……遊戯はまず徹底的に闇遊戯をサポートしだすのである。
闇遊戯をサポートし、場合によっては「主人公」の立場さえ放棄する。
いわば、ピンチヒッター的な役割に自らがシフトすることによって、闇遊戯を信じて任せる。
それまではほぼ「強引に」闇遊戯が出番を奪っていたが、そうではない、「君はいていいんだよ」をしっかりと教え、闇遊戯を自ら解放しているのである。
そして、自分は闇遊戯に「何かあったとき」のためにひたすら出番を待ち続けるのである。
それをマリクや瀬人に「器」「からっぽ」等と皮肉られたりするが、そこはまったく気にしていない。
自分が信じている相手を疑うようなことはしないだろう。
結果的に、その「サポート面」で遊戯は成長していくことになるとは何とも皮肉だな、等と思ってしまうわけではあるがw
個人的にそういう成長の仕方もいいなと思ってしまうのはどうしてなのか。
この遊戯のサポート面をカバーしているのが、遊馬にとってはアストラルなのであるが、遊戯はあくまで個人の問題、そして、アストラルは完璧に相手の問題になるので、遊戯の解決策がそのまま遊馬に向かうことはない。
アストラルにとっては「別に遊馬のことだし、関係ねえよ」で別に問題はないのである。本来ならば。
本来、遊馬はこの「哀しみ」に自分自身で気づき、受け入れ、乗り越えなければならない。
しかし、結構頑固でなかなかそれを認めなかった彼。
そこで、アストラルがそこに気づいて、おそらく、しっかりと遊馬に「哀しみ」という存在を認めさせた。
そりゃ、もう、遊戯並みに「徹底的」にそうさせた。
ともかく、後半泣き通しではあったが、敢えてアストラルは何も言わなかった。
まるで、今までの13年間分、泣けと言われているかのよう。
「泣くな、お前の肩には希望が…」云々言ってたのは、カイトさんですよね。
「絶対泣かない」と言いつつ何度も泣いちゃうのが遊馬である。
だが、別に放置していたわけではない。
アストラル自身もドン・サウザンドと戦い、エリファスを失ったとき
「泣いてなどいられないのだな」
と自分を鼓舞していたが、遊馬にはそれを求めなかった。
「だが運命は過酷な苦難を与えた。
君は身も心もボロボロになりながら、耐え、乗り越え、私たちに勝利をもたらしてくれた。
しかし、それは君自身が気づかないうちに、君から一番大切なものを奪ってしまった。
だから、私は……」(145話)
遊馬は「一番大切なもの」は自分だといった。
この話を書いたときに「笑顔が涙にとってかわられた」という言葉が頭に浮かんだ。
おそらく、アストラル曰く、遊馬の「一番大切なもの」は「笑顔」だったのだろう。
個人的には、遊馬が自分の「本質」(哀しみ)に気づき、笑顔を取り戻すまでをラストのアストラル戦で書いているような気がする。
要するに遊馬、そもそも、泣き虫やねん、って話で…。
こんな話をするとアレなんだけど、「溺れる」という字は「水に弱い」と書くのです。
おそらく遊馬は涙におぼれ、自分を失っていたのでしょうね。
(この話が自分が好きなだけですw)
ここまで書いて誤解してほしくないのは別に「泣くこと」そのものを否定しているわけではないです。(遊戯の怒りも一緒ですけどね)。
皇の鍵と千年錠
「皇の鍵」は遊戯王ゼアルの象徴である。
その証拠にOPにて輝き、作中でも何度も意味ありげに光る。
だが、その存在を理解できない人も多いのではないだろうか。
私はできなかった(笑)
最初は、この「皇の鍵」は原作遊戯王の「千年パズル」と同意義だと思っていた。
そして、最後に「皇の鍵」はアストラルとともに、消滅するのだと思っていた。
しかし、実際は、闘いの儀を終えた遊馬の胸の中、なくなることがなかったのだ。
この鍵は「アストラル世界」の象徴、また、そこから「皇」そのものを意とする。
では、この鍵とはいったい何を示しているか。
【皇の鍵は「アンク」である】
この皇の鍵、実は「千年錠(千年アンク)」である。
原作においては、シモンが持ち、シャーディの手に渡り、最後にアテムによって封印されたが、それの成れの果てが、おそらくこの「鍵」になるのだ。
そんなバカな。原作の設定がいまさら来るのか!
原作遊戯王を少し思い出してもらいたい。
シャーディは、千年アンクで遊戯の心を開け、闇遊戯の存在を暴いた。
同時に、シモンは、千年アンクで、封印されていた魔神エグゾディアの封印を解いた。
そもそも遊馬は「繁栄」や「生殖」といった言葉が似あうと思っていたし、「生命の喜び・輝き」そのものといってもいい人間だと感じていた。
右京先生は「遊馬を太陽」と称したが、文庫版タロットのタロット解説を見ると、だいたい太陽の項目に該当している。
ちなみに、皆さんは「アンク」に似たカードをきっとご存じだ。
そう、「死者蘇生」。
原作では遊戯の切り札となり何度も彼を救ったカードだが、1話で、遊馬がオボットとぶつかったときに、シリーズの目玉になるであろう、ガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレムというモンスターとともに、一瞬だけ死者蘇生が垣間見れている。
おそらくは父一馬から受け継がれたものなのだろう。
初期の遊馬デッキにはなんとしっかりと入っていて、しかも、希望皇ホープを呼ぶ切り札として使われている。
勿論、激突!デュエルカーニバルやTFSPでもしっかりと彼のデッキ中に存在している。
アニメ7話では死者蘇生を2枚入れているという話も見受けられるが、別にアニメの世界は原作基準じゃないからね、仕方ないね。
ちなみに、その切り札が「ダブル・アップ・チャンス」に変わっていったことに関しては、いずれ、やりたいと思う。
「鍵を持つ」遊馬の本質とは「生命」そのものの持つ力なのである。
ちなみに、この千年アンクの力は原作においては、「人の心を暴く」というもの。
シャーディが遊戯の心を読むのに使っていたが、これをゼアル風に変えるとどういう風になるのだろう……。
それはもう、皆さんお分かりの通りで、はい、「遊馬先生」爆誕です。
そら、そうもなるわ……(^^;
これは私の仮説だが、遊馬は鍵がないころは、いわゆる意気地なし、弱虫、等の言葉が似あう存在だった。
しかし、一馬にかっとビングと鍵を与えられた。
彼は、その鍵で何を開いたかというと……「デュエルで人の心を読めるよう」になりました。
というより、鍵の力でばんばん他人を暴くようになった。
それまでは多少なりとも、デュエルの腕や勝てないことに悔しがっていたり悩んでいたのだと思う。
しかし、鍵の力で他人の心をのぞき見できるようになってからは、おそらく、それが楽しくて仕方なくなった。
そして、何よりも、「勝敗」という些細なものが気にならなくなった。おそらく、これが大きい。
「デュエルをすればそいつの全てがわかる」
遊馬は高らかとそういいますが、これがまんざらでもないことがうかがえる。
実際に、真月の件でベクターに瀕死にまで追い込まれ、ダークゼアルとなったとき、彼はアストラルの精神世界に侵入し、アストラルを「悪」から解放している。(98話)
やっぱり、「人の心をのぞき込む」なんて、まるでシャーディーじゃないか。
要するに、デュエルとは自分の腕とは関係ない、おそらく、遊馬にとって「他人を知れる機会」そのものなのだ。
彼にとって、得た情報を処理するのはたやすい。それをおそらく感覚でやっているのが遊馬なのだ。
【アストラル世界にとっての皇の鍵】
この鍵、実は「アストラル世界」から、しかも、「アストラル(らしき人)の手」によって渡されるのである。
アストラル世界は高度なエネルギー世界。
死んだ人たちが、ひたすらランクアップを続けるための世界である。
少なくとも、遊馬が来るまではそうでした。
その頂点にある「皇」、象徴たる力、それこそ「生命」そのものである。
どういうことなのか。
ちなみに、この「皇の鍵」……見ようによっては「♀」と「♂」を合わせたような形になっている。
……要するに、そういうことか?
アストラル世界は死人が存在し、ひたすらランクアップを目指すものとして、存在する。
そこに、「性的な営み」は勿論ない。
おそらく、親子や家族、恋人等の「絆」なども、本当は存在していない。
ただ、関係だけ、そこに「在る」だけである。存在するのみの存在。
「守りたい」という願い、なければ、何も感じなくなっていく。
全ては形式化、形骸化しており、そこの存在意味もランクアップできなければ無意味なものとなっていく。
おそらくは「皇の鍵」とは、「封じられた欲求」、彼らが「手放した生命の輝き」そのものなのかもしれない。
アストラル世界の人々は封じられた自らの欲求を「皇の鍵」として奉り、天井に置いたのだ。
同時に、この鍵…は「悠久なる生命の回帰」の象徴だと見て取れる。
彼らは、ランクアップを目指しながら、生命に満ち足りた、自分自身の過去、すなわち、人間時代の自分たちを思い出していたのではないだろうか。
【アストラルの「生命」の話】
遊馬のシンボル…おそらく、人間の「男女」から生まれた子、アストラル世界の象徴である「皇の鍵」を持つにふさわしい存在。しかも、その存在はアストラル世界の存在が、悠久の時を経て、人間世界にたどり着いた存在。
アストラル世界の禁忌を犯しまくった存在である。
アストラル世界は、そもそも「人間の魂」がランクアップした世界。
そのランクアップした魂の総意から生まれたアストラル。
その総意から生まれたアストラルの半分が、今度は「人間の子供」としてオーバーレイして生まれてくる話。(これこそ、ランクダウン)
おそらくはエリファスと同義の存在であるから、アストラル自身もアストラル世界の総意とみて差し支えない。
そんなアストラルが今度は「生命の力を得た」自分(遊馬)と出会い、「父母」を介さなかった「生命」が今一度、生命の原点回帰に立ち返るという話。
文字通り、アストラルの役目とは、本来の使命とは別にこの「生命」を自ら追体験することだと思う。
彼が「仲間のために勝ちたい」と願ったときに生まれたのが「カオスナンバーズ」であるホープレイ。
後々、バリアン七皇たちに、さんざん苦しめられる「カオスナンバーズ」を実は一番最初に作り上げたのが、ほかならぬアストラルなのである。さすがラスボスw。
しかも、このホープレイは「ランクアップしない」、ホープと同格のナンバーズである。しかも、純正なのかそうではないのか、ランクアップに必要な魔法カードを使用しない。
更には後半、遊馬とともに、ヌメロンコードの力を借りて同じくカオスナンバーズを作り上げている(ヴィクトリーのことです)。
そこには、バリアン七皇と同等のカオス「勝ちたい」「信じたい」という自分の欲求が込められている。
生きることは「欲望」を持つこと。
とは、よくイクニ作品で語っていることだがそんな純粋な祈り、欲求が込められたのが実はアストラルなのである。
欲望とは彼の「使命」や「意思」に反して行動を起こすことです。
そのせいで、遊馬をNO.96から守ったり、カオスナンバーズを誕生させたりと、アストラルもすっかりカオスの虜になってしまいました。
そりゃ、アストラル世界もアストラルをカオス認定して追い出したくなってまうわ。
ただ、アストラルが「カオスを持つ」プロセスは、少なくともアストラル世界にとっても非常に有意義なことである、結果的に。
アストラルが仮にカオスが芽生えず使命だけを遂行していたなら、アストラル世界は緩やかな衰退を繰り返しいずれ滅んでいたことでしょう。
アストラル世界がカオスを受け入れることで進化すると思い、彼はカオスを受け入れた。大丈夫、すべての責任は自分が負う。アストラルの意思に間違いはない。
遊馬を仮に「生命の輝き」と称されるべき存在であれば、その「生命」の意義をアストラルが体現している…のである。
【アストラル世界の問題とは】
アストラル「私は孤独だった…だから彼のことがわかる」
アストラル世界に蔓延する問題とは「孤独」そのものなのではないか?
遊馬「誰でも心のなかじゃ、良い心と悪い心が戦ってるモンじゃねぇのかよ!
でも、そっから逃げ出さなきゃ、きっとどんな事だってやり直せる!誰とだって分かり合える!
一人一人の苦しみも見ないで!何も知らないで!本当のランクアップなんて、出来っこねぇ!!」
この「戦い」とは別に戦争せよ、というわけではない。
特にアストラル世界の人に関しては、アストラル・エリファスにすべて自分たちの生存権を預けているように描写がされている。
自分たちは決して戦わず、すべての決定権を預けている。
もしかしたら、自らほかの人とかかわりあうことをなくし、自分たちから何かしようと思うだけ、希望を願うだけの存在になり果ててしまったのではなかろうか。
そこまでいけば「生命の喜び」等を感じることができないほど疲弊していた。
「戦い」とは常にだれかと結び合うことで生まれる。
その結びつきで、人と人が何かの理屈で大規模なものとなったものを「戦争」というが、人は多かれ少なかれ、人との交わりの中で、生命の喜びを感じていく。
それはたまに、深い谷から戻れないほど傷つくこともある。
しかし、リスクを恐れていては、大切なものも得られないのである。
やはり、そのためにはやはり「皇」の存在が必要なのだろう。
自らが戦うためではなく、人に「戦わせる力」を持った人間が。
遊馬は、アストラルは、そんな「皇」に近づくことができたのだろうか。
アストラルは、遊馬がアストラル世界に認められたとき、エネルギーをアストラル世界からもらい、蘇生した。
その時の顔が、本当にやさしく、慈愛にあふれている、安心した顔をしていた。
やっと、アストラル世界の人と、触れ合うことができた、そんな顔をしているのは、私の気のせいだろうか。
ここまで書いて、さて、遊戯王ゼアルは「人間賛美」や「生命賛美」なのかと言ったらそうではない。
というか、それだけなら私の考察は進んでいない(^^;
そして、真に生命賛美なら、あんなにラストで人は殺さない。ホープも殺意を持たない(キリッ)。そもそもカードゲームでどれだけモンスターという命がさらされておるんじゃ我!
ということです。
個人も「生命賛美」だけを書いて、逃げようとは思わない。が、ここまではどうも「皇の鍵」の考察から少しずつ外れてきているので、またの機会に「ゼアルのテーマ」として書きたいと思います。
そんなに難しい内容ではないですので、多分補足的なことだと思います。
それにはどうしても九十九遊馬のプロセスを経ないと書けませんで続きは彼の話を挟んでからにしたいと思っております。
追記:ここまで書いて重要なことを書き忘れた。
「鍵」といえば、「アレ」だよ。あれを書かないと100点もらえない。
皇の扉と皇の鍵の謎
遊戯王ゼアルにおいて、一番「謎」とされているのが、「皇の扉」だと思います。
皇の扉…最終話で、アストラルはこの扉をトラップモンスター、「運命の扉」として登場させ、遊馬は最後の最後で、これを壊してデュエルの幕を下ろした。
「この扉を開くものは、新たな力を得る。だがそのものは、代償として一番大切なものを失う…」
この言葉は、ゼアルを代表するセリフですが、結局、「一番大切なもの」がなんなのかわからず、また、特に「やがて」何かを失った気配がないので、もしかしたら、スタッフが忘れてるんじゃないかとか、奪わなかったとか、そんな憶測がなされていました。
私もこの皇の扉の謎を解消したくて、考察ブログを立ち上げたくらいだ。(理由はほかにもいろいろあります)。
ちなみに、「新たなる力」とは、「ゼアル」そのものを指します。
扉の先から、アストラルやホープが現れましたが、別に彼らは新たなる力っぽく見えて、そんなものでもないです。
「扉さん、大盤振る舞いww」ではないです。そう思っていた時期が私にもありました。
「いってえ…、またあの夢……」
遊馬の初めてのセリフはこれです。
遊馬は何度もこの「扉」によって悪夢を見続けていました。
1話で遊馬が「超かっとビング」で、扉と契約を交わした後も、ちょくちょく交信はあったみたいで、Ⅱの一番最初に白昼夢という形で(要するに居眠りの途中で見た夢だが)現れ、「扉との契約」を果たしたからと言って、その契約が終わったわけではないようです。
同時に、89話で、まさかのアストラルとご対面。
「我は汝を試すもの…」
として現れる。しかも、皇の鍵の世界に番人を招いてデュエルをさせる。
この時、遊馬、アストラル(ついでにNO.96)は番人との勝負に勝ち、ついに、二人そろって皇の扉と対面。
そこで、皇の扉は、アストラルの真の記憶…、ヌメロン・コードの存在を知る。
ちなみに、この時、「扉は開いていない」。
場所は、「あの扉が見せている、アストラルの記憶への道」だそうで…。
実は、皇の扉が開いたのは2度。一度は、アストラルが現れたとき、そして、二度目はゼアルになった時だけ。
皇の扉は、その存在こそ不思議でよくわからないものだが、ゼアルを知っていたり、ヌメロンコードを知っていたりと一筋縄にはいかない。
まるで、彼の言う通り「試すもの」として存在していたのか。
結局これだけ情報を出しても、一体何がしたかったのか。一体、扉は何なのか。等と首をかしげてしまうのだが、私はこの「皇の扉」……、遊馬の「精神世界そのもの」とするのが一番適当だと思っている。
「この鍵は、いろんな可能性の扉を開けられんだ」
と彼自身言っているが、悪夢に延々悩まされたまま、向かい合おうとしない。
「扉」に隔てられて、解放できない自分自身とジレンマ。
実は、自分自身の「可能性」にちゃっかり、鍵をかけているのは、ほかならぬ自分自身。そして、その中から現れた「自分自身の分身」デュエルの天才「アストラル」。
それらは、すべて自分自身の「鏡」だ。
そんな可能性のある世界を一方的に閉ざす存在…、それが実は「皇の扉」なのである。
では、そんな「世界を一方的に閉ざす」存在とはだれか。
それは「過去の遊馬」である。
というより、古来の戦いで別れた半身……、アストラルから分かれた「もう一人のアストラル」である。
「アストラルから別れ、遊馬として生を受けるまでの記憶を持った存在」といったらよいだろうか。
皇の扉は、その失われた知識や知恵、ゼアルの記憶等を持っているのである。
それは、アストラルの記憶も保持できているのは当然のこと。
実は、アストラルの力というのは「人の記憶に介入できる力」を持っているようで、時にナンバーズの力でそれをやっていたり、ハルトが一人でハートランド降りてきた時にそれを露わにしていたりするのだが、この皇の扉も、それに似た能力がある(=アストラルの真の記憶を取り戻す役目)。
呼び方がいいので皇の扉を「過去遊馬」とする。
「過去遊馬」の役目は3つ、1つは、アストラルと遊馬の邂逅、2つめが、ゼアルの解放、最後には、アストラルの記憶の復活である。
ゼアルというのも、実は、「遊馬を過去に戻す」行為、そして、「全盛期のアストラル」として復活させるための儀式である。
「全盛期のアストラル」を「完全体アストラル」とここでは称する。
詳しくは24話を見直していただきたいのだが、遊馬が、扉の中へ飛び込み、赤い光となる瞬間、“遊馬の姿が消えている”。のである。スローでみるとおそろしくホラー。
遊馬が「物質」から「エネルギー体」に変わることを意味している。(詳しくは、74話で語られるが、バリアン世界とアストラルは同質の世界と考えてよい)。
それは「物質」としての生を遡り、「エネルギー体」としての自分に戻ることを意としている。
【「可能性のある世界」を閉ざすわけ】
「過去遊馬」は遊馬の乗っ取りを考えていたのか? 過去の自分に目覚めるために…。
いや、それやろうとしてたの、アストラルじゃない(^^;
もしかしたら「過去遊馬」の存在理由は、「自分自身を守るため」だったともとれる。
悪を保持したアストラルは、わずかな黒いシミだけで、自分を崩壊寸前まで追いやった。
遊馬は強靭な精神力を持つが、彼の幼さゆえに、簡単に命が散らされる。それはアストラルも遊馬も変わらない。
ゆえに、「過去の記憶」が、自分の過去の自分が、彼自身を知らず知らずのうちに、セーブをかけていた。
自分自身を守るため、皇の扉は、可能性のある世界を閉ざし、遊馬をあらゆる危険から守ってきたのだ。
【過去の崩壊と未来への序曲】
やっぱり、皇の扉は最終的に、破壊されなくてはいけなかった。
その先の可能性の世界を手に入れるため、自分の過去と決別するため……。
あれほど、バリアン七皇に「過去の自分自身の真実」を伝えてきた、アストラルだが、当のパートナーである遊馬へはそのことを伝えていない。
おそらくは、バリアン七皇そのもののドン・サウザンドの呪いから解き放ち、「本来あるべき流れ」を築いただけ、遊馬にはその「本来あるべき流れ」すら必要のないことを意としているのであろうと個人的には考えている。
だから、過去にとらわれず、未来への恐怖へ打ち勝ち、別れの覚悟を決めるために、自らの過去の呪縛たる、「運命の扉」を自らが築いた「未来」で、遊馬に破壊させたのだろう。
遊馬はアストラルの「可能性」を幾つも見つけてくれた。
今度は、遊馬の番……、遊馬の未来と可能性の世界を、縦横無尽に走り回ってほしい。
そんな願いがかけられていたのかもしれません。
んで、実際どうなったのかというと、
ラストで、いきなり、「空中浮遊」をしでかしてます。
おい、皇の鍵のなかの船使えよ! と思っちゃったのは私だけでしょうか。
【「可能性のある世界を閉ざす」反論 一馬と皇の扉の共犯説】
個人的に考えていた説を提示しておきたいと思います。
1)皇の扉は、アストラルの完全体復活を願っている。
ゼアルとは、すなわち「過去のアストラル」に戻すことを意としています。
であれば、遊馬の「可能性ある世界」を閉ざし、「アストラルに戻す」…要するに再び魂をランクアップ(要するに死ねと)させることを意としています。
デュエルに負け続けさせておけば、いずれ遊馬は死にますから…そこで、アストラルと合体して元に戻る可能性もある。
過去遊馬はアストラルに戻りたい
遊馬は自分自身を歩みたい。
こんな感じ。
そりゃね、欠けているよりも一緒のほうがいいもんね。
個人的にそれは違うな、と思うのはだったら、枕元に立って延々説教をする必要はないということ。そして、危険を顧みてアストラルを地上世界に送ったりはしないだろうと思ったのです。
2)一馬と皇の扉共犯説
よくこの扉がやり玉にあがるのは一馬の関係ではないでしょうか。
個人的にはそうなのか、そうではないのか、読む方にお任せしたいのですが、やっぱり「扉と一馬は共犯」説を説いておこうかなと思います。
共犯説……、いやいや、何を共犯するんだよ。
と思うのですが、皇の扉と一馬が結託して、アストラルを遊馬の元に送り込み、使命を実行させた。という説ですね。
過去遊馬がすべて一馬に情報を提供し、アストラル世界を救わせるという願いと遊馬の成長を願い、二人で成就させた、ということです。
それを立証するためには、1つだけ必須なことがあります。
それは、過去遊馬と一馬が一度以上接触している、ということ。
方法は問わないが、これがおそらく、一馬と遊馬、アストラル、そして、皇の扉を結ぶ文字通り「鍵」になる。
これが立証されなければ、一馬が「遊馬とアストラルは同じ」ということを自分の手で導かなくてはいけない。
ここで過去遊馬と接触し、情報を得ているかいないかで大きく考察はぶれる。
そうでなければ、どうなるかというと、すべて一馬と未来が全部企てて実行した、ということになる。というより、皇の扉の存在をまず彼が理解しないといけないのだが、そういう描写がない。
そもそも「皇の扉」という遊馬の精神世界とどう接触をするんだ。ということになる。
ヒントは遊馬の1話の「またあの夢……」くらいなんです、しょぼいんです(^^;
もし、この夢に散々うなされ、それを父母に話していたりしてたらまた違うことも考えられるが、そうでもない。
「またあの夢……」がどのくらいの頻度で現れ、どう彼が苦しんでいたのかもそういう描写も見受けられないために非常に考察が困難です(笑)
50話ごとにに1~2回くらいしか姿を現さない扉に遊馬が苦しんでいた。という表現を与えるのは少々どうなのかな、等と思う所存。
個人的に、遊馬が一時的に皇の扉にのっとられて、そのお告げを聞いたりできれば、1発で証明完了なのだが、そうは簡単ではないのである。
では、この説の弱いところをちょっとつついてみる。
それはこれ1つだろうと思うのだが、「運命の扉」をアストラルが遊馬に壊させた意味である。
過去の扉が仮に父との共犯であるなら、アストラルは一馬をそのまま人間世界に戻さなかっただろう。
皇の扉と一緒に、一馬も葬る(をい)はずだが、彼はそんなことをせず、きちんと人間世界に返しているのだ。
要するに共犯であれば「皇の扉をとるか、一馬をとるか」ではなく「皇の扉と一馬をとる」はずである。
それが片一方を壊させ、一方を丁寧に人間世界に戻しているところを見ると、やっぱり共犯ではないのかな、などと思ったりもするのである。
3)一馬=皇の鍵 説
ちなみに、この説の発展形で「一馬=皇の扉」説というのもある。これは私が作った。
勿論、この説には「過去遊馬」の存在は不要であるし、典型的な「父親殺し」の物語として、遊戯王ゼアルは成り立つわけではあるが。
遊戯王といえばろくでもない親父の品評会であり、一馬もその一人だという前提に立つ。
アストラルは遊馬のことを
「遊馬の心の奥にあるのは、両親を失った悲しみ……
そして、悲しみの中で両親の教えを信じて生きていこうと、あがきもがいている」
と称しているため、これは「父親殺し」の物語ではないのかな。と思った次第です。
同時に2と同じですが、そこまで憎まれてたら親父を人間世界に返さないだろうと思ってます。