【デュエルリンクス】やっぱり記憶を失ってしまったアストラル
リンクスに遊馬とアストラルが現れましたが、「おお、二人で参戦」なことに驚いています。
だって、WDCも、TFSPも分かれてたのに…。
しかも、微妙に性格の差が出ていてデッキも面白かったですよ、どちらも。レガシーわかんないけど(笑)
WDCだと、遊馬がガガガやゴゴゴを混ぜて調和のとれたレギュラーデッキ構成なのに対し、アストラルはひたすら戦略性のみを考えたゴゴゴのみ、ガガガのみのデッキだったりする。
アストラルのゴゴゴホープは本当デッキ面白いなぁと初心者ながら考えてました。
TFSPは遊馬がゴゴゴとガガガに特化してて、代わりに、アストラルがホープとZW特化してるので。狙ってるでしょ、としか思えない。
でも、要するに「分ける必要なかった」んでしょうね。
アストラルもCMで「君は変わらないな」とか「楽しい」と言っているので、
「アストラル、全力で遊馬と遊びに来てるわw」
とちょっと笑ってしまいます。
使命とかないので思う存分遊ぶがいいわ!
この二人の微笑ましいやりとりが楽しめるのがゼアル視聴者の特権でしょうね。
ゼアルワールドでは、再び「ナンバーズ探し」が始まるのでしょうか。
……アストラルの記憶吹っ飛びすぎではありませんか?(笑)
みたいな内容を開放前に書いて、アップしなかったのですが。
ともかく、ワールド解放おめでとう! 楽しい!
アストラルの気持ちがわかる。やっぱり「楽しい」。
そして、全力でコナミが楽しませるように仕向けているのでなおさら。
デュエルリンクスゼアルワールド、面白すぎてハマってます。
眠れなさそう(^^;
肝心のホープはまだ手に入っていません。何回かガチャったのですが、全然当たらず、これは課金かなぁ…(^^; なんて。
にしても、すごい想像していた通りで、遊馬とアストラルが必要以上に喋りまくってます!!
もう、デュエルが二人のやりとりだけでも楽しくて、しかも、会話に数パターンあるので、負ける時の台詞も結構違う。
遊戯と表遊戯が分かれてしまい、別々に台詞をきく羽目になってしまいますが、遊馬とアストラル、と遊戯と表遊戯、これはこれで違いが出てて、ナイスだと思いました。
そして、ここ重要。
やっぱり、記憶を落としてしまったアストラル……うーんw
アストラル、あなた大事なもの無くしすぎです(^^;
なくすのは想像してたけど、やっぱりか…www
もう、いい加減、「ポンコツ」だと認めるがいい!(死)。
ランク戦本当に弱いので勝てないのですが、意外とホープと遊馬とアストラルを使っている方がいて、ふふふっと一人で笑ってしまっています。
うーーーん、やっぱり、ゼアルワールド楽しいーーー!!
弱いけどおつきあいくださいませー。
デュエルリンクス ゼアル実装前の生放送見てきました
いやーーーーーーーーーーーーーーーーよかった!
本当によかった。楽しかった。
ツイッターで「♯来るぞ遊馬」でやると絵文字ゲットできます。
やっぱり、遊馬かわえええええええええええええええええーーーーーーーーー。
なんか、ゼアルの説明聞くとゼアルって「W主人公の物語」みたいになってたらしい。
えっ、嘘……。
そんなこと、10年前の放送中言ってない(きっぱり)。
だから、1期はアストラルの物語だとあれほど。
そして、ゼアルワールド実装されたら、遊馬とアストラル一緒に操れるらしいです。
おお、原作再現。
というか、個人的には両方好きだけど、分けてほしかったです(^^;
最後は別れるんでしょうか。
個人的には、NO.96が来てくれたら最高……もう、何もいうことないです。
デッキもいよいよホープ来た、これ。
パックでは、ガガガガンマンが来てますね。
最近、TFSPでマンサー、ガガガリベンジ、シスター、マジシャンあたりを結構回せるようになりました。
「ふっ…遊馬、君は変わらないな」
なんか、最終話が再燃するわ。
アストラルが「観察結果…、遊馬とのデュエルは、デュエルリンクスでも楽しい」って
楽しいって。
楽しいって言ったぞ、こいつ。
久しぶりに観察結果持ち出してきたと思えば、「楽しい」とか普段めったにお前使わんだろ。遊馬といたとき楽しんでたのか、こいつ……。
本編でも「興味深い」「面白い」とは言っていたけど、ついにその境地に入ったか。
普段言わない性格だよね。
これから、どんどんアストラルアップしていくのかしら。
イベントには出てこないのが残念なのですが、いずれアストラルの話とかききたいですね。
イラストは…なんかなぁ、WDCのリメイクカットみたいな感じがするんですよね。
リンクスのイラスト結構気合が入っているので、やられる描写とか、どうなっているか見てみたいですね。
私もちょくちょく現れると思いますのでそのつもりで。
アストラルと遊馬一緒に出したのは、
FNO.0未来龍皇ホープ
のフラグですよねえ……。
それしか考えつかないのですが、遊馬デッキ
1ホープ系
2未来皇系
3ガガガ系
4魔人系
といろいろあるので、うん…迷う。
「死」に「生命」で抗う ゼアルのテーマとは
「死」に「生命」で抗う
ゼアルのテーマ的なものにちょっとばかり触れていきたいと思います。
2期に関しては、完璧に「死」に「生命」で対抗するという話になってますね。
そこまで書くと「生きるって素晴らしい」みたいな、生命賛美になっちゃうところ、ゼアルはそれとなくカバーしているので「ただの生命賛美」には陥りません。
おそらく、「死」にあらがうというのは多分、ゼアルが「4」作目だからです。4です、死です。
……なんで、テーマ掘り下げていくとダジャレになるんでしょうかね、私のせいでしょうか…(ーー;
【ドン・サウザンドは死のモチーフ】
ゼアルのラスボスはドン・サウザンドです。このキャラクター、いかにも「死」がモチーフになっていることは皆さんお気づきのハズ。
ゼアルはこの「死」と戦っていくという物語に2期目からなっていく。
私としてはどうしても、ドンさんが閻魔大王にしか見えなかったんですね。
あの錫を以て、閻魔帳をパラパラ見ているような…。ドン・サウザンドの持つ「リライティング」能力もああ、閻魔さまじゃんけ。と思ってました。
でも、このキャラクターの元ネタは、おそらくこれではないかな?と思う。
バリアン七皇が「北斗七星」の名前にちなんだものだというのをご存じでしょうか。
ニコニコ大百科より引用
バリアン七皇の名前の元ネタが北斗七星と言われている(ドゥーベ→ドルベ、メラク→ギラグ、フェグダ→ベクター、メグレズ→メラグ、アリオト→アリト、ミザール→ミザエル、ベネトナシュ→ナッシュ)。
知らなかった……
北斗七星の一番下の星に「破軍星」というものがあります。この星をつかさどっているのは、七皇ではナッシュです。
実は、道教に、北斗七星をまとめる「北斗星君」という人物がいます。
北斗七星の神格化である北斗星君は死を司る白い服を着た醜い顔の厳格な老人であるとされる。
北斗星君は全ての人間の行いを調べて地獄での行き先を決定する、日本における閻魔大王のような役割を持つという。
また、人の寿命を記した巻物を持っており、そこに書かれた数字を書き換えることで寿命を伸ばすこともできるとされる。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8C%97%E6%96%97%E4%B8%83%E6%98%9F
ニコニコ大百科 引用終わり
簡単に言えば、日本版閻魔大王、ということになるでしょうか。
私的にはとてもすっきりしました。だから、彼の手下は北斗七星、バリアン七皇というわけなんです。
彼は「人の寿命を記した巻物」で、人間の「数字」を操るのです。多分、それで七皇もやられたのです。
ここが元ネタなら、やはり、ナンバーズの「数字」はズバリ「寿命」なのでしょう。
【死にあらがう】
では、どう「死」と戦うのか。
それは、勿論「生命の力」を以て戦うのです。
物語はこうなのでしょう。
アストラルはドン・サウザンドにかつて戦いかろうじて勝利しましたが、アストラルは半分に分かれてしまった。
何故ドン・サウザンドを倒せなかったのか。
それはアストラル自体が「エネルギー体」だからにほかなりません。彼に「生命」はないのです。
その無理を悟った半身アストラルは、人間世界にたどり着き、父母を持ち、子供となることで、生命の力と絆を得て、再びドン・サウザンドと戦う。
これが、遊馬なんです。
うん、よくできたストーリーですね。
個人的に、「ああ、ゼアルってアストラルの物語なんだ」ということを再確認できました。
勿論、遊馬の活躍もあったのですが、その前の「前提」がもう、アストラルありきだったのですよ。
そりゃ、1期で、アストラルが最初に主人公になるわけだ。
原作分かる方には、アストラルは闇遊戯と見てる方も多かったのではなかったのでしょうか。
では、何故生命の力なのか。
というのは「皇の鍵」の考察を読んでいただきたいのですが……。
「生命アンク」=死者蘇生=皇の鍵=千年錠 と私はとらえています。
遊馬のデッキにちゃっかり「死者蘇生」というカードが入っているのですよ。
しかも1話でガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレムというメインモンスターの間に、こっそり映ってます。
これをアンコール放送後に見て「また死者蘇生が来る、これはフラグ!」と思ってましたが、まさか意味があったとは…。
要するに、一度遊馬は死んでいて、人間世界で新たな生命として生まれ変わっている。これを本編中、ランクダウンと言っています。
闇遊戯の使う死者蘇生はどちらかというと自己主張的なものだと感じましたが、皆さまはどうお考えでしょう。
これ、おそらく、意図的に入れたんでしょうね。後半ほとんど使わなくなったけど。
何故かって、遊馬はもう十分に「生命の力」を持っているからです。
そもそも「生命の力」を持つ皇の鍵が、遊馬に宿ることによってその力が増幅されている。
なんといえばいいのか。遊馬が皇の鍵を持っていれば、彼に安心してすべて任せられる。みたいな。自他ともにそうなのでしょうね。
彼はそれだけでは足らないと考えていて、絆の力、つながりを以て、「死」と戦おうとしている。
理由はアストラル世界が「孤独」ゆえに弱まってしまったからでしょう。彼自身が孤独に陥らないために、絆に頼ろうとした。
後半「死者蘇生」の代わりに「ダブルアップチャンス」が幅をきかせます。
アストラルは、そもそも「生命」のことに関しては無知でしたし、遊馬に追従することで、「生命」や「生きる」ことの意味を追体験する。
そして、遊馬自身に「君の持っている使命」を思い出させるという使命がある。遊馬を覚醒させなければいけなかった。
勿論、遊馬はそれを自分のものとは知らずに遂行しようとする。
アストラルの「記憶がない」は遊馬にとっての「記憶がない」はイコールなんですよ。
だから、記憶探しをするたびに、二人はもともとの形、要するに「ゼアル」に戻るわけです。
【遊戯王のゼアルのテーマとは】
ここまで書いて、ゼアルは「生命」と「戦い」を結び付けていて、それが単なる「生命賛美」ではないということなんですね。
生きることは戦うこと! ……う~ん、それも間違っていません。
遊馬「誰でも心のなかじゃ、良い心と悪い心が戦ってるモンじゃねぇのかよ!
でも、そっから逃げ出さなきゃ、きっとどんな事だってやり直せる!誰とだって分かり合える!
一人一人の苦しみも見ないで!何も知らないで!本当のランクアップなんて、出来っこねぇ!!」
そこに、ランクアップやカオス…等の問題が生じてくる。
遊馬のいう「戦い」とは「他者との結びつき」なんですよ。作中はそう言っていませんので、私が思う答えなのですが…。
デュエルを「武器」にしていたアストラル、そして、「つながり」として見ていた遊馬。その折衷案こそ、遊馬が見つけた「戦い」の意義。それすなわち「他者との結びつき」なんです。
彼曰く、戦う相手は自分の鏡なんだから、他人を通して自分を知ることができる、イコール、誰かと関わりをもてば、必ず問題は解決することができる、ということなんですよね。
すべてひっくるめると、遊戯王ゼアルという作品は
生命の輝きは戦いによって洗練される
このゼアルという作品は「戦い」、「結びつき」によっての「魂の洗練」を延々書いたお話なんですよ。
ここが気持ち悪いと思う人はそもそもゼアルが合ってないのかもしれません。
宗教色? オカルト? 原作なんかそんなもんだ。
私はオカルトも精神世界も神話も大好きなので何も問題ない(キッパリ)。
要するにチャレンジ精神を忘れるな、戦いを恐れるな、誰かとの結びつきを恐れるな。そこから必ず問題が解決する。
もっと短くまとめると、
かっとビング!
……初志貫徹という素晴らしい結果に(^^;
テーマがぶれていないから、その分、主人公を動かすのも楽だったのかな。と思うんですが、吉田さんのインタビュー聞くと、結構大変だったそうですね。
確かに最初、遊馬のかっとビングは「チャレンジ」という言葉の意味だけだったんですね。
でも、そこから、遊馬の実体験に基づいて、いろいろ発展させているわけです。
かっとビング!
それは勇気を持って一歩踏み出すこと!
かっとビング!
それはどんなピンチでも決して諦めないこと!
かっとビング!
それはあらゆる困難にチャレンジすること!
公式が最初にネタバレしちゃってるからなぁ(^^;
遊馬はきちんとチャレンジの中に、他人とのつながりを築いて、そこから、自分の確かなものを作っていったのです。
余談ですがこの話は結構後になってやろうと思ってました。
まぁいいです、リンクス実装記念ってことで。
遊馬とアストラルの変遷 遊びと武器の狭間-2/3
【1期は、アストラルから遊馬へのアプローチである】
1期は何かって言ったらおそらく「観察結果」が全てを物語っています。
数でわかると思います。1期で18、Ⅱ期では、漫才含めて4。1期で監察結果が重要な意味がお分かりいただけるでしょう。地味に好きだったので、後半待ち望んでいたんですけどね。まぁ、状況が状況だけになくなっちゃいましたが、Ⅱ期はⅡ期で面白いのでいいです。
要するにアストラルから世界観の説明を延々なされるわけです。アストラルの「観察結果」はほとんどが遊馬と周りに関するものです。そして、この「観察結果」……Ⅱ期ではほとんどなくなります。
1期はアストラルの記憶が一度リセットされ、まっさらな状態から文字通り「アストラルの記憶探し」、もとい「自分探し」がスタートします。
アストラルが遊馬を通して人間を知り、心を知るのです。そして、考え方も生き方もまるで違う遊馬の良さに少しずつ気づいていき、アストラルが遊馬を受け入れていく描写がなされるわけです。
まずはアストラルが遊馬を受け入れるのです。
個人的にそう感じるのは、ホープの進化、そして、ゼアルへの進化です。
実はホープの進化、ホープレイへの進化を一番最初にやり始めたのがアストラルなんです。ここで、ホープレイが「カオス化」してアストラルが「仲間のために勝ちたい」という欲求が生じたことにより、なされました。
同じく、ゼアルもまた、ホープレイと同じく「アストラルからのアプローチ」でなされるわけです。
60話から抜粋
アストラル「戦うのは君だ、君が決めればいい」
遊馬「俺が負けたら、お前は消えちまう」
アストラル「デュエルをともにするなかで、私は君から多くのことを学んだ。私は、共に戦えたのが君でよかったと思っている。私は君の選んだ道に従う。それがいかなる道であろうとも」
遊馬「アストラル……お前、なんでそんなこと言うんだよ!もっとわめいたり泣いたりすりゃいいだろ!記憶を取り戻してくれ、このまま消えたくないって。そしたら、俺だって割り切って戦えんだよ。なのに…、なんでだよ…」
個人的にアストラルがすごいと思うのは、この段階で、運命を遊馬に預ける決心をしているんですよ。
そして、アストラルをそう変えてしてしまったのは、残念、遊馬自身なんです。責任とりなさい。
「この状況では、私にできることは何もない。君のデュエルだ、君が考え君が決めるんだ」(62話)
この状況でもアストラルは遊馬の存在を許容し、遊馬にすべてをゆだねる。
例えるなら、DEATH-T終了時の遊戯状態でしょうか。
遊馬の存在の許容、全肯定。
前に凌牙の強みは「人に絶対の信頼を置く」ということを書いたのですが、結構アストラルというキャラは、Ⅱ期のナッシュのメタとして書かれている節が多いんですよね。だから、凌牙とアストラルは「比較対象」になったりするのですが。
アストラルの強さもおそらく同じで「人に信頼を置ける」強さがあるんです。
ただ、凌牙と違うのは、それが「使命感」や単なる「無知」。
彼の精神的な幼さゆえの依存的な信頼でもある。要するに「すがり」ともとれるわけです。
その原因は、勿論、Ⅱ期で明らかになる「アストラル世界」の構造や、アストラルの存在意義に関わってくるからなんです。全てがそうではないのですが、「まぁ弱みもありますよ」程度のにおわせなのですが。
それをⅡ期でベクターによってかき回されかき回され……、それがどうなっていったかは、皆さんご存じのことでしょう。
これは、wikiからの引用なんですが、これで正解かなぁと思います。
1期では「信じるしかない」のですが、Ⅱ期では「信じたい」という言葉に代わる。
1期のアストラルの「受け入れ」とはほとんど「受け身」。
本当の信頼とは、「自分からの発信」が必要。
相手からの発信を受け入れ、ともに成長していくということ。
Ⅱ期ではそれこそアストラルの心理描写が減っていくのですが、代わりにアストラルの主張が激しくなっていくのです。
遊馬「お前、俺に似てきた…?」
アストラル「…それはない」
【Ⅱ期は、遊馬からアストラルへのアプローチである】
「俺にとってデュエルとは勝ちも負けも関係ない。俺にとってデュエルはつながりなんだ。俺はデュエルするみんなとつながっていたい」(26話)
1期の遊馬にとってデュエルとは「つながり」。他人のことを知ることができる、他人をつなぐための道具です。
「デュエルをすればそいつの全部がわかる」
遊馬はそう考えていて、しかも、それをきっかけに相手を認め、仲間にしていたのです。それは、敵であり、自分の命を奪おうとしているカイトも、トロンやフェイカーとて例外ではなく、戦った結果、どんなにひどい目にあっても、相手を助けようとしていました。
しかし、アストラルにとって「デュエルは武器」でした。
「デュエルとは神聖な儀式だ」(7話)
と早々に口にするんです。
「勝ったらすべてを手に入れ」、逆に「負けたらすべてを奪われる」というとてもシビアな世界です。
遊戯王を長くみられている方は「うん、知ってた」ぐらいの認識ですが、遊馬にとっては意味不明でしょう。それもそのはず、アストラルは世界の運命を担っているのですから、次元が違います。
遊馬は後半アストラルを失い、アストラル世界に旅立ちます。その時、エリファスに向かってこういいます。
「アストラルはいつも言っていた。デュエルこそは神聖な儀式だって」(118話)
あれほどデュエルを「人のつながり」と言っていた遊馬が、豹変したかのようにデュエルを武器として使いだす。
このセリフが個人的にも「ああ行っちゃわないで、遊馬」と思っちゃうんですよね。
何か悲しいのは、そこに「勝つ必然性」が存在しているように感じるからでしょうか。
闘いの儀の前も「だったらデュエルだ」って怒気をはらんで言うのも、あれも同じですよね。
勿論、それまでも何度も遊馬たちの「命」がかけられた戦いはあったように思います。しかし、その時でさえも、相手とのことを考え、何度も解決策と模索していました。
「勝ちも負けも関係ない」という彼のそもそもの考えから、相当逸脱しているように感じます。
これは誰かが書かれていたのを引用します。
運命の扉がⅡ期冒頭に出てきて「お前は新たなる力を得る。そして、一番大事なものを失う」という。遊馬はこれをアストラルだととらえた。
「アストラル、お前は今じゃ、俺の全部なんだ」
と彼自身が言っています。遊馬はアストラルを失うことに恐怖し、そこからしばらく迷走します。
遊馬は「アストラルを守りたい」と言っていましたが、実際は「対等になりたかった」のだと思います。
アストラルを背負うことを決めた遊馬は、おそらく、アストラルと対等に、それ以上にならなくてはいけないと考えるようになった。
そのためにアストラルの考えをまず受け入れるのです。それは「負け」を許されず、相手を「敵」とすることで切り捨てる、アストラルの本来のデュエルでした。
アストラルにとって、遊馬が自分の考えを受け入れてくれること、守ってくれていること、一緒に戦ってくれることは嬉しいのですよ。ただ、同時に寂しさもあります。アストラルは遊馬の「つながり」のデュエルに救われているのです。少なくとも、「孤独」から解放し、理解者となってくれたのは遊馬でした。
「私と君はともに戦っていくのだ」(84話)
ここで一緒に戦おうと濁していますが、ここで主導権がどちらにあるかと言ったら、勿論アストラルです。
アストラルに遊馬が従う形なんです。1期とは真逆です。
つながりとしてのデュエルはまだあるんですよ。それを守りながら、アストラルに傾倒していくわけです。
一応、アストラルはその意気込みをすべてひっくるめて「一緒に戦おう」と言ってくれました。
本当の、遊馬の物語は…というより、「ここからが始まり」なんですよ。
だから、折れないハートの冒頭「今始まるのさ」なわけです。
地獄にご招待? えっ、まじで。
【アリトは防波堤】
私はバリアンの中では一番アリトが好きかな。お前、熱血キャラが好きなだけじゃ(^^;
でも、熱血キャラでいつつ遊馬の一番揺れ動いている難しい時期に表れている、非常に難しい人物です。
彼は一度「つながり」のデュエルで戦い、最後に和解した人物でした。
しかし、実際は、彼は敵であり、純粋なデュエリストでもありました。
意図的に遊馬と属性が似たキャラにしているのだと思います。
アリト戦では完璧に「アストラルを背負う覚悟」が試されているのです。
結果的に全力で戦うことで、遊馬は意思を示しましたがその後、アストラルがアリトのナンバーズ(おそらく命そのもの)を奪う姿を見て、本当の「戦いの意味」を知ります。
アリトを見て、まだ分かり合えるんじゃないか。という可能性をうかがわせることができますが、結局遺跡編でその希望は打ち砕かれる。勿論、それはドンなんたらが悪いんだけど。
【ベクターは燃料】
その甘さ全部ひっくるめて問題全部解消してくれたのが、ベクターなんですけどね(死)。
本当、ベクさん、いいことしかしてない。
アストラルの言う「ともに戦う意味」の再定義がここでなされる。
遊馬のホープレイVはおそらく、遊馬の進化と個人的にはとらえている。
「ともに戦う」意味を遊馬はホープの進化という形でそれで表してしまった。
いわば「出し抜き」ともとれる。
アストラルからすれば「あの約束忘れちゃったの!?」みたいな(笑)
遊馬の中では「ともに戦う」という決意を持ちつつ、やっぱり、自分へは「このままじゃダメだ」と思っているのですよね。遊馬はアリト、ギラグ戦でフィールド効果で苦しむアストラルを見ていますから。
遊馬からすれば「ともにじゃ遅いんだ、自分だけでも戦えるようにしないと」という焦りでもありますよね。
遊馬というキャラの特性上、遊馬が自分だけで考え込むと、だいたいから回るので、よくない傾向なのですが(笑)
そのわずかな遊馬の心の葛藤を見逃さず、同時に、アストラルの「信頼」の弱さを突き、二人を徹底的に追い込むまではよかったのだ。
実際、アストラルへの「悪のシミ」を作りだし、それを残すことに関しては成果はあったように思います。
アストラルが「敵の手」によって傷つくまでは仕方ないのだけど、これが「自分の手」でゆがめられてしまったために本当の意味で「アストラルを守る決意」を固めてしまった。
バリアンへの共闘…という決意でもありますね。
ベクター戦から、遊馬の捨て台詞が非常に悪くなるんです。わざとでしょうね。
結果的に、ベクター戦にて、遊馬とアストラルの心は一つになりました。
遊馬個人での進化がホープレイVを呼び、二人での進化がホープレイ・ヴィクトりーになるわけです。
ここからは少し脱線します。
これは前に書いたことなので、見ていただきたいのですが、ベクターの問題って「孤独」なんですよ。
結局、信頼できる相手がいなかったとか、相談相手がいなかったとか、まぁ、1期初期のアストラルに似ているといえば似ているのですが。
だから、努力家で計算を怠らない部分は十二分に評価できるのですが、「人間の信じる心」とか、可能性とか、「人間の関係性」の中で生まれることに関しては、めっぽう弱いんですね。
彼が1人で戦わず、仲間と協力して追い込めば、遊馬たちは負けていたかもしれません。
ま、1人で戦うからベクターって格好いいっていうのは勿論あるのですが。
「三人寄らば文殊の知恵」ではありませんが、1人で解決できないことを他人との関わり…、「関係性」の中から解決しようというのが、遊戯王の原作から続く問題提起ですから、そういう意味では、遊戯王の「問題提起」としてはすごい役得なキャラクターともいえます。だから、最後、ベクターは救われるんですけどね。
もし、これを否定されたら、十代も闇遊戯も、そして、瀬人もマリクも重要なキャラはみんな救われておりません。
ただし、ベクターが「人との関わり」を拒絶し引きこもっていた場合(その究極がドン・サウザンドなわけですが)、救われることはなかったでしょう。どんな状況でも勇気をもって1歩踏み出した人間こそ勝つのです。「関わり」が味方か敵か、正義か悪かはほとんど関係ない。何度もぶつかれば、そのシグナルは誰かが受け取ってくれる。今回遊馬というキャラクターが受け取った。ミザエルの場合はカイトが受け取った。1期ではトロンも同じです。
原作遊戯王では、おそらくその「関係性」…仲間たちの絆による解決策を「結束の力」と呼んでいるのです。本当、うまく言い得たものです。
ゼアルでは「結束の力」という単語が出てきませんが、遊馬はばっちりそのスピリットを持っているので問題ありません。逆にシャークになくて大変だったりするのですがw
私が遊戯王好きな理由はここなんです。「悪」をすっかり解放して思う存分暴れられる、悪を「いてもいいんだ」と許容できる世界なんですよね。だから、好き放題暴れているNO.96がアストラルよりも好きなんですが(笑) 3DSのWDC、カードプロテクター遊馬で、フィールドNO.96なので、いろいろ察してください。ベクターもベクターで、衝撃の真実さらした後のほうが落ち着いてみられるという…何それ。
ちなみに、そんなドン・サウザンドのような卑怯者、他人との関係を拒絶した者、「引きこもりこそ救われるべき」というテーマで書いたのがアークファイブのBB戦。うん、いいこと言ってたんですよ。視聴者がつかめなかっただけで。
しかも、何を思ったのか最後らへんに持ってきたので余計にわからなくなり、尺稼ぎだとかさんざん言われてましたが、これはいい問題提起でした。ただ、他の人に伝わったのかは本当によくわかりません。
ちなみに、ゼアルではドックちゃんとキャットちゃんのデュエルでそんなことをテーマにしていたように思います。
次作VRAINSは仮想現実を使って、「引きこもりで何が悪い」という一種の開き直りをしましたよね。別に悪いことではないですが、リンクス宣伝…そうですか(汗)。そりゃ、指摘されてた通り、キャラクターはみんな「孤独」にもなるわ。
また、SEVENSで外に出始めるようになって、やっぱり、このほうが遊戯王的に落ち着くと思ってしまいますね。
……なんか脱線した。
長くなったので、後半は次回に書きます。
3/3へ続く
遊馬とアストラルの変遷 遊びと武器の狭間-1/3
【遊びと武器のはざま】
ゼアル1とⅡになって、かなり雰囲気が変わったように思います。
私は1の前期とⅡの前期が(日常ものだね)が結構好きでした。
逆に真月が出始めてから、不穏すぎて見なくなってしまったこともありました(^^;
1ではあれほど「デュエルをすればみんな友達」と言っていた遊馬、Ⅱ期では、そんなに言うことがなくなりました。……あれ? 不穏???
完全にⅡという作品、1と切り離されているように感じるんです。1つは、遊馬の変化、もう一つは、カイトの変化ですね。凌牙はⅡになって結構盛り返してくるんですよね。特にカイトは後半、ネオ・ギャラクシーをほとんど使っていません。ジンロン戦だけだったんじゃないかな(うろ覚え)。カイトが身内とデュエルすることもありませんでした。もう少しカイトとのデュエル見たかったですね、うーん。カイトの変化については、いつか書くことにしましょう。
【舞台装置としてのゼアル】
そもそもの原因、1期って、おそらくアストラルが遊馬を認めて受け入れていく物語にスポットを当てているのです。……だから、なんかわかりにくいんですよ。
主人公である遊馬の心情がうまく伝わらない。その代わりに、アストラルが鍵のなかで延々悩んでいるシーンも多いんですよね。
視聴者が「アストラル視点で遊馬を見る」という、非常に客観的な描かれ方をしています。
例えば、5話の二人のやり取りを見てみましょうか。
アストラル「裏とはどんな効果なのだ」
遊馬「裏?」
アストラル「どうやら君が嫌われた原因は、その効果にあるようだ」
遊馬「裏ってのは心では言ってることと別のことを考えてるってことだよ」
アストラル「別のことを…。人間にはそのような特性があるのか」
遊馬「人間なら誰だってあるさ」
アストラル「ならば遊馬、何故君にはない」
遊馬「…えっ。あるよ、俺にだって裏くらい…」
こういうやり取り、個人的に好きなんですが、初期のゼアルってこういう描写が多いんですよね。
遊馬のアストラルへの説明フェイズというか。
すごく遊馬をオブラートで包んでいるというか、遊馬の心情を「客観視」させているんですよ。遊馬の悩み、的なことに関しては「敢えて」スポットを当てない。
だから、変な言い方なんですが、バカだけどピンポイントで聖人にも見えるんです。
Ⅱになってから、遊馬もいくらメンタルが強くても、人並みに悩んだり、落ち込んだりする様を見せられるのですが、1期では、視聴者が「アストラル視点」で、遊馬を見せてくるために伝わりにくいんです。
この手法、いささか下手な例えですが、「転生もの」とかなら効果的に使える手法ですが、わざわざゼアルでやる必要あったのか。とちょっと不満です。
例えば、異世界がどういう世界観なのかをざっと説明するために、「メタ」である「第三者」の視点を借りるのです。そうすれば、いわゆる「一般的」な世界と異世界の説明が比較されることによって、異世界を簡易に説明できるようになるのです。
でも、別にゼアルの世界観、前作のように荒廃した世界でもない、普通の現実世界の延長なんだから。
わざわざアストラル視点をもってきて、遊馬を見えにくくしちゃうのはどうなのかなぁと。
まぁね。スタッフさん「一番遊馬書くのが大変」と言ってたから、そういのもあるんでしょうし、一応、遊馬とアストラルは同一人物だったのだから、そこを踏まえると、「アストラルが主人公」という視点で、描きたかったのでしょう。前半アストラルを書いて、後半遊馬を詰めて…みたいな。
慣れた人だったらいいけど、この見せ方は伝わりにくい選択だったと思います。
この辺も「子供向け」じゃない要因の一つかなぁなんてとらえます。
唯一「Ⅱ」がついているのは遊戯王ではゼアルだけなんですよね。いや、本当なんで分けたし。
ただ、物語全体を通して、1期とⅡ期は、全然別物を描いている。
前にも言いましたがまず「監察結果」がほとんどなくなり、主人公がアストラルから遊馬へと切り替わる。
1期がアストラル視点で描かれているとしたら、Ⅱ期は、それこそ遊馬の心情がいきいき描かれているんです。それによって、遊馬がどう考えているかが手にとるようにわかる。
Ⅱ期出だし、「俺はアストラルを守らなければいけないんだ」みたいな使命感がいきなり生まれたのかと言ったら、そうではなく、1期でも相当思いつめていたんですが、描写がなかっただけです。60話で、泣くぐらい実際は悩んでいた。
遊馬「アストラル……お前、なんでそんなこと言うんだよ!もっとわめいたり泣いたりすりゃいいだろ!記憶を取り戻してくれ、このまま消えたくないって。そしたら、俺だって割り切って戦えんだよ。なのに…、なんでだよ…」(60話)
私はⅡ期の出だしの遊馬を見て「何がどうした、気が触れたか」と思ってました(すまん)。
遊馬ってキャラはメンタルが強いとか言われますが、結構人並みに悩んだり、落ち込んだりしているんですよね。
その代わりに、Ⅱ期はアストラルの心情が逆に見えにくくなっていく。最初の頃はよかったのですが、ベクター戦後、アストラルの心理描写がほとんど消えました。これが地味にラストまで続くので厄介なんです。アストラルが遊馬を信頼している描写は多いのですが、アストラルの表情からすぐにそれを察することができるのかと言ったら、そうでもない。
「私の使命はバリアン世界を滅ぼすこと」
といった後、表情が激変したのですが、ここで1期遊馬のように、今度は「遊馬を通してアストラルを客観視」されるので、アストラルの内心に視聴者が踏み込めない。「これ、本音なの?」という感じ。闘いの儀の前のアストラルも同じですね。
「破壊が望み」かと思いきや、NO.96戦で遊馬を守るために自爆をしてみたり、アストラルの心情もまた結構複雑、かつ「見えない」構成になってるんですよ。
結果論を言いますと…、遊馬に散々影響受けまくったアストラルに、悪役は無理です。
物語の裏と表、二人が「一心同体」…もとは「同じ存在」として描くための、「舞台装置」としては作品のできはいいのです。すごくよくできていますよ。まぁ要するに「劇」だったのね、ゼアルは…みたいな感想に陥るのかもしれないけど、きちんと「狙い」が定められて作られていた。
ラストまで見た人のご褒美、とでもいうんでしょうか。私もBS組でしたが、ラストまでほぼリアルタイムで見て本当に感動してしまいました。
ラストまで見た人にしかたどり着けない面白さはありますよ。私はニコニコで何週もしてます。(見すぎw)
まとめると…
1期)主=遊馬 従=アストラル
主:メインストーリーにあるように「遊馬が」デュエルチャンピオンを目指す物語を描く。
従:実際は「アストラルが」遊馬を受け入れる描写を描く
Ⅱ期)主=アストラル 従=遊馬
主:「アストラルが」世界を救うために奔走する
従:「遊馬が」アストラルを助ける過程で成長していく。
わからんって方は、
「物語の問題点」に対して、「解決策」はもう一方が持っているといえばわかるだろうか。
うん、このほうがわかりやすいですね。
1期:遊馬がデュエルチャンピオンを目指す → 解決策はアストラルにある
Ⅱ期:アストラルが世界を救うために奔走する → 解決策は遊馬にある
ととらえていただければいいのかな。
本当、構想的には「最後にすべてが詰まってる」みたいな描き方をしてるんですよね。
だから、最後は「マスターピース」…一応「傑作」言葉の意味ですが「千年パズルのピース」のようにすべてが埋まる作品を作ったのだと思います。ゼアルはだいたいマスターピースです。
そう考えると、1期でアストラルがメインとなって描かれていることに関しては、個人は全然問題ないと思うんですね。ただ、遊馬ってキャラが面白いので、結構もったいない気がしますが…。
……とはいえ、Ⅱ期はかなりヘビーです。1期はそうでもなかった。
Ⅱ期の内容って、端的に言えば、遊馬が「遊戯王の歴代主人公と同じわだちを踏む」ことなんですが。
それだけ聞くと「なんだ、簡単なことじゃん」って感じがしますね。
結論から述べますね。
遊馬のデュエルに関する考えは「つながり」、アストラルからすれば「武器」です。
アストラルにとっては前提が「武器」、遊馬の「つながり」という考え「も」ある。アストラルに関してはこれで完結するんです、が。
遊馬に関しては、「つながり」と考えていて、それを「武器」としていく。という課題があるのです。
それは単なる「言葉のあや」の問題なのか。
それはこれからお話ししたいと思います。
2/3へ続く
模倣をやめた瀬人
【模倣をやめた瀬人…九十九遊馬】
個人的には3勇士をこう称している。
遊馬…模倣をやめた瀬人
凌牙…千年パズルのない表遊戯
カイト…熱意のなき城之内
まぁ、人それぞれの解釈があると思いますが、これがベースですよ。
遊馬のタロットポジはおそらく「太陽」と「戦車」である。
昔、太陽って言ってたじゃないか、追加したのか!
……そうじゃないんです。
いう、タイミング逃しちゃったのですよ。
そして、それを説明するのに瀬人さんかませないとうまくいかんのです。
個人的に「海馬」というと同じ名前に「モクバ」というキャラがいるので、基本私は「瀬人」か「瀬人さん」呼びです。
個人的に、海馬瀬人という人物はどういう評価かというと「ものまね」の達人なんです。
いやいや、別に「真似」することを否定しているわけではないです。
瀬人って、本当にわかりやすいのですが、近くにいる人を気にするあまりに、気づかぬうちに影響を受けるんですね。知らぬ間にコピーする。
そして、「俺はお前など認めん」などと言いつつ、実際の行動は、その人のコピーなのですから、面白いのです。
原作遊戯王は、ずっと闇遊戯をコピーしてました。闇遊戯が現れる前は、ずっと父のコピーやってました。
瀬人って、「狩猟タイプ」というか、目標を見つけたらどこまでも追い続ける。
まぁ、アニメ見た方だと印象が若干違うかな。個人的には、アニメと原作は別物としてとらえています。(アニメの瀬人は美化されすぎててね。別にそれもいいんだけどw)
ちなみに、「学ぶ」は「まねる」からきているんです。
瀬人の強さというのは「学ぶ」ことにあるのですよ。マネしながら、理解をし、そこから何かを得ようとする。
実際、瀬人の「他人のコピー」である「ソリットヴィジョンシステム」はそもそも遊戯から受けた罰ゲームが元でした。
負けたのもショックだったんでしょうね。それを現実化しようと考えた。
それが現在の遊戯王シリーズの基礎となる「映像化」となっているのです。
彼は「真似」だけではなく、しっかりと「進歩」という形で結果を残すのです。
実は人をコピーする能力って、そこから何かを学ぼうとする。
最近だとパクリ、だとかはあまりよくない、なんて話は聞きますが、将来の自分につなげるためであるならば、私は「真似」はどんどん認められるべきだと思いますね。
ただ、悪用はしちゃだめだと思いますが。
ところで、遊馬、君は何かを学ぼうとしたことがあるのかい?w
ここで遊馬の話をしていこうと思います。
瀬人からしたら、カイト同様「クズ」とか言われそうですがw
本当、遊馬は学ばない子です。忘れ物もする、カードを落とす。カード効果も忘れる。
じゃあ、さらに追撃をしてやろう。
実は、九十九家というのは、家族そのものが「情報を担う」一家である。
父と母は冒険家で「過去の情報を集め」ており、姉はニュース配信で「今の情報を集め」ている。
九十九家の強みはおそらくは「情報処理能力」の1点に限る。
遊馬、その能力ないんですよ。
……んで、その力がだれに流れているかって、それがカイトなんですよね。
カイトは後半、「情報の虫」と疑われるぐらいに走り回るキャラになっている。
一応考察は進めているけど、天城家はおそらく「軍人の系譜」、しかも、研究職ということもあって、カイトもまた情報処理能力は目を見張るものがあるんですけどね。
1回だけ遊馬と会っただけで、目的であるアストラルを導き出しているのですから。
その代わりに、遊馬は「人の心」の情報を得て戦っているので、別に問題ないんですけどね。
しっかりと受け継がれてるじゃないか。九十九家の能力。
…追撃じゃなかったw
瀬人のもう一つの強みは「一途」です。
遊馬を考察していて感じたのは、「あっ、この後ろを見ない、まっすぐさ」は瀬人を受け継いでいる。と思いました。
本当、瀬人も遊馬もあんまり振り返ることをしません。そういえば二人には「馬」の字がありました。
前、ニコニコ大百科のスレに「遊馬の『馬』の文字は、海馬からきている」というものがあったけど、個人的にそれって脈ありだな、と思いました。
海馬は記憶をつかさどる場所です。
ゼアルにおいても「記憶」がキーワードとなりました。
自分の道を突き進み、前を見てまっすぐ進み、単純で、人に流されやすい。そのくせ、見ている先はどこか遠くを見ていて、人の心が届かぬ顔をしている。
そういえば、遊馬もホープばっかり、瀬人もブルーアイズを愛している。そして、二人とも「光属性」とぴったり。遊星や十代もそれなりにエースモンスター以外出すよなぁ。とは思ってたけど。
確かに似ているところが多々あるなぁなんて思ってました。
二人の違いは、瀬人が「過去を否定し続ける」存在なら、遊馬は「過去を知ることがない」…要するに「無知」の存在であること。
それだけの「差」です。差別化できてよかった(をい)。
そうなると遊戯要素はどこへ向かったかって、きちんとシャークに引き継がれていた。
シャークは影の主人公やねん。と個人的には感じている。特にシャークの過去編は、完璧に「古代の記憶」編のオマージュです。あれ、凌牙をナッシュにする儀式として描かれているんですけどね。
そこは一応解説しているので気が向いたら見てみてください。
……これ、うすうす気づいているので言っちゃっていいのかな。
言っておくけど、「外れる」と思うから、当てにしないでおいてね。
鍵…遊馬…瀬人…ロード…ブルーアイズ……う~ん、頭が痛くなってきた(^^;
SEVENSでオーティスに「鍵を探せ」と出たので「また鍵か」と思っちゃったのが私なんです。
ゼアルにおいて「鍵」とはアンク…生命の輝き。そして、「人の心を暴く」力。個人的にはそう定義しています。
まーた、この話が来るのか。
瀬人といえば「果てなく続く俺たちのロード」……ロード……あっ。
ロード=瀬人、鍵=遊馬 といえばわかるかな(わからねえよ)。
まーた、瀬人が悪さするのか。(本編に出るというわけではないけど)。
だって、1話でブルーアイズが出てきてるじゃないですか。
いやいや、なんで「ひ孫作品」(ゼアル、セブンス)は、瀬人さまがでしゃばるんだろうなぁ。別に瀬人が嫌いではないけど、どこかしら影響を与えるのが瀬人さんなんですよね。
でも、遊我は発明に関しては完全に瀬人気質なんですよね。今度はどう悪さをするんだろうな。
【人物考察】神代凌牙 「運命」の先に見つけた答えとは。
【「かみよ」じゃない「かみしろ」だ】
「神代」は「かみよ」と読むことができる。「神代」とは「神代七代」これは、古事記における日本の成り立ちである。
日本では、鮫を「海の神」としているので、気になる方は、そのあたりは今一度皆さんに古事記を読んでくれるようお願いしたい。
しかし、個人的には、この「かみよ」呼びは若干、ナッシュっぽさがあるとはいえ、これを「かみよ」とは呼ばない。おそらく、神の「依り代」としての「神代(かみしろ)」と呼んだほうが個人的にはあっている。
もう一度言う。「神の依り代」なのである。
九十九もそうなんだけど、悲劇しか起きない名前ですわ(^^;
そもそも名前に答えが書いてあるのですが、彼の根本的な役割とは要するに「依り代」…要するに「代役」や「生贄」といった言葉に置き換えるとしっくり来るのではないだろうか。
彼はドン・サウザンドの後継者、バリアン世界を継ぐ者として「あらかじめ決められていた」存在なのである。
凌牙が一匹狼を気取るのは、そんな「避けがたい」運命から無自覚に逃避行をするためなのである。
シャークはそもそも「王」であり、指導力を持っている。カリスマ性もある。その力が本編でなかなか発揮されないのは、そこに「迷い」が生じているからに他ならない。
新たな人生を歩むべきか、それとも避けがたい使命に準じるか。
果たして彼の選んだ決断は?
【結束の力なき表遊戯】
凌牙というキャラを考えると、個人的には表遊戯というキャラが思い浮かぶ。
えっ、うっそ。なんでシャークが表遊戯!?
うっさいわ、遊馬は瀬人だし、カイトは城之内なんだよ!!
しっかり解説するから、待っとけ。(煽ってすまん)。
表遊戯といえば、臆病で、弱虫。
彼は城之内との友情や、闇遊戯たちとの関わりを以て、最強のデュエリストまで上り詰める。
最初、闇遊戯の「代役」でしかなかった表遊戯が、成長を経て「自分自身」になる物語である。
しかし、そのきっかけは「千年パズル」の結束の力、というものである。
その力で友情や結束をはぐくみ、使命を授かるのだ……が。
原作風に言い換えれば、凌牙もまた、代役である自分の運命から早々と脱却し、それこそ、主人公の座を奪う勢いで戦わなければいけない。
しかし、凌牙の場合は、はなから「友情」やら「結束」やらを放棄している。
どころか、使命を放棄し、逃げ回っている。
彼が逃げ回るのは「代役」という運命から逃れたいためであり、一匹狼になるのも、自分という存在を誰かに理解されたくない、ということが大きい。
理解されなければ、自分が傷つくことがないからだ。
この子は自衛本能ばかりが高くなってしまっているのである。その証拠が「サメ」。食いつき、噛みつきはお得意。
「自分自身」を貫いている遊馬の姿を見たら、それこそ「イラっ」とするでしょうね。
「バカが…」なんて言いつつ、実は遊馬は「憧れと嫉妬」の対象でもあるのです。
そして、そんな遊馬と友情をはぐくむわけだが、凌牙が輝くのは、そんな「誰かのため」の戦い。
遊馬たちと友情をはぐくんでいる間は調子がよくなるはずなのに、離れた途端、調子が悪くなる。
凌牙の強さとは「誰かに絶対の信頼を置く」ことだと思っている。
「信用」じゃないです、「信頼」です。
おそらくここだけとれば、遊馬もカイトもかなわないと思います。
アストラルと同じぐらいでしょうか(をい)、アストラルはもっと限定的だけどね。
凌牙の傍には、誰かがいたほうが強いのである。
例えば、ずっと離れずの璃緒とかね。
そういう意味では、原作でいう「王の立場」、「結束の力」にほぼ近しい力を有している「ハズ」の彼が、それに背を向け、嫌うのである。
そして、ナッシュを取り戻した際には、「友情」やら「結束」やらを放置したツケが回って、バリアン七皇は敗北の運命にさらされる。
全部ベクターってやつが悪いんだ。とか言っちゃいけない。
更に追い打ち。EDの challenge the game に「結束-Unity-」(遊戯、城之内、本田、杏子、御伽)のカードになぞられたシーンがありますが
「絆で明日を 繋いでいこう!」のシーンにも……残念、凌牙はいなかった。
このシーン、七皇と対抗する決意の場面でもあるんですが、しっかり7名揃ってるんですよ(^^;
誰だよ、こんなシーン仕組んだ奴は!(good jobだけど!)
【7歳で失われたもう一人の凌牙】
では、何故そんな「中途半端」な状態になっているのかというと、7歳で失われた凌牙の記憶のせいだと思います。
「7歳までの凌牙」…言いにくいので「真凌牙」とでもしましょうか。
この「真凌牙」の役割も「器」……もう、嫌になってきた。
「代役」だの「器」だの……なんで凌牙はこんなにも呪われてるのだか。
ここがね、個人的にはわからないのですよ。
そもそも、この「真凌牙」…死んでいるはずならバリアン世界にいるはずなんです。璃緒も一緒。
そして、バリアン世界にいるなら再会を果たしているハズが、しかし、そういう描写はない。
本当に「記憶を共有しているだけ」の存在なのか。
ということは、死んだまま守護霊になっているか、「二人の心を1つにしている」か、それとも「真凌牙」がナッシュを乗っ取ったか、どれかなんですね。
個人的に、「真凌牙」は再びナッシュの命を授かった時、ナッシュを乗っ取ったのではないか。と思います。
これ、誰かと似ていませんか?
この「ナッシュが真凌牙をのっとろうとして失敗」って、まんまアストラルが遊馬乗っ取りに失敗したという描写と同じ。
要するに、ナッシュが凌牙になったのではなく、そもそも、凌牙がナッシュを受け入れついでにのっとったというわけで。
ナンバーズにとりつかれるのも、その「真凌牙」の部分で、ナンバーズの声が聞こえるのは、おそらくナッシュの影響かなぁ、なんて思っていたりする。
そんな生存競争を勝ち抜いたわけですから、やすやすと「過去の運命」に自分の命をくれてやるわけにはいかないのです。
だったら、逃げるしかないっていうわけで、逃避行の旅から、自分自身を探そうとしているわけです。
凌牙って、要するに「自分自身との戦い」を延々と繰り返しているのですよ。
そりゃね、意固地にもなるわ。自分で精いっぱい。そこに肉親の事故が重なれば疲労困憊で倒れそうにもなる。
そういう「不幸な」シグナルも、やっぱり「運命に手招き」によるものなのか。
自分本来の道か、それとも、過去に戻り、自分の役目を果たすか。
「カードは心」というアニメの中で、唯一、シャークだらけで、心の見えない凌牙(そういう意味では私はシャーク苦手だとか言わない)。
少なくとも、使命や運命を持つ遊馬と出会うことで、「過去の自分と向き合う」決心をしたのでしょう。えっ、冀望皇バリアンは、遊馬の影響受けすぎたとか言わないで。
シャークだらけのデッキが、後半、七皇基軸になるという変異を見逃さないのであれば、彼の心もまた変わっていったのですね。
個人的には「受け入れて」、「乗り越える」という実に遊戯王の成長プロセスに準じたキャラクターだと思います。
ここがね、表遊戯の系譜なんですよ。「受け入れて」「認めて」「乗り越える」。
実は一番、遊戯王らしいキャラなんです。
いやいや、しっかり乗り越えていますよ。
Ⅳ戦の時も、遊馬と戦っている時も、ナッシュは何度も凌牙になるんですよ。
何度も言いますが「ナッシュが凌牙になる」んです。
そして、凌牙のまま去っていく。しかも、未練がましくなく、潔く去っていくので、前の凌牙を見ていると違和感を持つかもしれません。
「俺はお前のいない未来なんて認めない」
いやぁ、これ言われたら絶対嬉しいですよ。
遊馬はしっかりと凌牙を「本物」として認めている。
「代役」「器」の人生を経て、ようやく「自分自身」を見出した。
代役の運命に終止符を打ち、きちんと凌牙が生きた証となる。
そう考えると、あんまり凌牙って不幸キャラとは思えないわけで……おかしいかな。
むしろ、きちんと「自分が何者か」に対する答えをしっかり出したほうです。
ゼアルという作品では、珍しいタイプです。
というより、他のキャラがみんな聖人君主、人のために命投げだせるキャラばっかりだから、なんか、バリアン世界のメンバーが自分本位に生きているのが悪いように聞こえるデメリットよ…。
そんなこと全然ないんだけどね。それから考えれば、シャークは自分本位で生きていていいキャラです。
追記:今回、あんまり出来が良く無いなぁ……。
1回データが飛びました。全部ベクターってやつが悪いんだ(嘘です)。
とはいえ、書ききれない……。
もう少し書きたいことがあるので、リメイクついでに捕捉します。
これじゃまだまだなんですよ。
私が凌牙に遊戯っぽさがあると気付いたのは、「過去編」ですかね。
凌牙に闇遊戯と同じ運命を与えるのか、作者は…なんて思いました。
そこの辺をうまく加味できなかったので、書き直しします。
ベクターのほうがよほど書きやすいよ。もう!!